同じ愚を繰り返す韓国

ノーベル賞受賞、おめでとうございます。
 
今年のノーベル化学賞には日本から吉野彰氏が選出された。受賞理由は「リチウムイオン電池の実用化」と言う事だ。
 
リチウムイオン電池は現在、モバイルバッテリー等に広く活用されており、不肖筆者がこのブログの記事を更新するのにも、また読者様諸兄がこの記事を読む際にもお世話になっているであろう。勿論それ以外にもリチウムイオン電池の恩恵を挙げればキリがない程だ。
 
現在町中何処でも気軽にネットに接続して情報を得られる社会となっているが、その様な便利な世の中になったのもリチウムイオン電池が実用化され、広く用いられたお陰なのは疑いの余地はなく、その業績がノーベル賞に値するのは当然、とも言える。
 
日本中が吉野彰氏への祝意に沸くのは当然だが、その恩恵に与りながら「妬み」とも言える感情を剥き出しにしているのが韓国である。
 
 
さて、ここに挙げた中央日報の記事、
 
科学技術分野のノーベル賞は人類の視野を広げた新しい発見や技術に与えられる。〉
 
と、一応はノーベル賞の意義を理解している模様で、同時に
 
粘り強い研究よりは直ちに使える技術を研究することにこだわっている。日本と米国のような先進国から見習って生産技術の発展に固執してきた韓国式発展モデルの限界〉
 
と、現状把握とその分析はそれなりに正鵠を得ている。だが、
 
金大中元大統領のノーベル平和賞1件しか受賞できなかった韓国の現実が新たに対比される〉
 
と、捉え方が根本的におかしい部分があるのもまた事実である。
 
日本は確かにノーベル賞の受賞者の数も、また科学技術力も韓国を圧倒している事は論を待たない。それは韓国人が幾ら騒いだ所で「否応なく思い知らされる現実」である。だが、「ノーベル賞受賞者数」が「国家の格」を示すバロメーターとなる訳ではない。また、オリンピックのメダルと違ってノーベル賞は「他の誰かと競って競り勝った」と言う様な「勝利の証」でもない。韓国は競争社会、と言われるが、ノーベル賞はそういう類の賞ではない、と言う事を認識しない限り韓国から「科学分野でのノーベル賞受賞者」出る事はあるまい。そもそも「狙って獲る」性質の賞ではないのだから。
 
※韓国は先ず自分達のノーベル賞に対する認識から改めなくてはならない。
 
だが、だからと言って韓国人がノーベル賞に憧れたりする気持ちまでは否定するものではないだろう。それはそれで結構な事だし、日本と比べるのも勝手だが、それならそれで韓国人が戦慄すべきは
 
「韓国人科学者が『人類の為になる研究』をどれだけしているのか?」
 
と言う現実ではないのだろうか?科学分野におけるノーベル賞受賞者の日韓の比較に意味はないが、敢えて言うと
 
「24対0」
 
と、比較にもならないレベルの差がある。これで「比べよう」と言う発想が根底から狂っており、ましてや「追い付き、追い越せる」なんて言うのは「百年早い」どころの騒ぎではない。
 
物事には「道理」と言うものがある。それをキチンと守るならともかく、
 
「結果だけを求める」
 
だけが能ではない。韓国が真っ先に理解しなくてはならないのはこの点だが、それをいつになったら理解するのか?そうしない限り毎年この様な記事が出てくる事になる。