呆れる支那人のこじつけ

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原発を襲うゴジラ。核の恐怖はゴジラ映画の中核テーマでもある。

支那人の論理と言うのは常識的思考回路を持つ我々日本人には到底理解不能な物が数多くある。羅援とかいう支那軍の元将官はその最たる例だろう。そういう意味不明の論理がまかり通り、一般人がそれを信じている時点でこの国の異常さ、民度の低さが窺えるのだが。

そんな中、支那保守派による論評サイト『烏有之郷』に掲載された王小石という評論家(ペンネーム)による「『ゴジラ』の隠喩:日本の軍国主義復活の前奏曲」という文章が翻訳され、ネットにあった。余りに馬鹿げた論理だが、支那人の異常思考を嘲笑するには格好の材料ではあるまいか。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4055

この文章を書いた王小石とは中国社会科学院幹部のペンネームだという噂がまことしやかに囁かれているそうだ。従って内容は支那当局の意向が反映されていると考えられる。

王は映画が示す比喩には言わずにはいられない本質があると言う。それは映画ゴジラアメリカと日本による日本の軍国主義復活のための政治宣伝ということだそうだ。
「映画の中で描かれるゴジラは、放射能による染色体異常の強大な古代の生物であり、圧倒的な破壊力を持つ。それは日本軍国主義が危機感に満ちた海洋国家としての日本で生まれたのに似ており」と王は言うが、この時点で既に脈絡が不明の噴飯ものの論理である。

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※国会議事堂を襲うゴジラ

更に「1954年の映画では正体不明の生物が漁船を襲うところから始まり、都市を襲うが、芹沢博士が発明した「武器(但し芹沢博士は武器として使う為に作中でゴジラを葬った「オキシジェンデストロイヤー」を発明したのではない:筆者注」によって海に戻っていく反戦的色彩もある。1954年3月にビキニ島で行われた水爆実験に対する抗議の意味もあった。漁船第五福竜丸放射能を浴び、船員たちは半年後に亡くなったのだ。本多猪四郎監督は原爆投下に遭った広島を車で通りかかり、人間地獄の惨状を目のあたりにして彼はこうした情景を「ゴジラ」に取り入れ、人類破滅をもたらすものとして描いた。」と述べている。

王も第1作の「ゴジラ」も見ているのだろうが、作品の本質を理解している様には感じない。「ゴジラ」ではゴジラもまた核の被害者であり、軍国主義とは無関係なのだが。

また「日本だけでなく世界でも日本の軍国主義イメージの具現化であったゴジラが、反戦テーマの破壊からの再生への日本社会を守るというイメージに転換を遂げたのだ。」とも言う。これはどうやら昭和のゴジラシリーズを指している様だが、この辺りからゴジラは当時の世相を反映する様になっていったに過ぎない。王はあれこれ言う前に戦後の日本の歩みを学んだ方がいいだろう。

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※核が産んだゴジラゴジラの細胞とバイオテクノロジーが産んだビオランテ。「ゴジラVSビオランテ」は名作だ。

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※シリーズ最大ヒットの「ゴジラVSモスラ」環境破壊問題について考えさせられる。

王が日本のゴジラシリーズをどこまで見ているのか、文章からは判断しにくいが、少なくとも平成のVSシリーズまでは見ていると思われる。しかし、その平成のVSシリーズでのメッセージはこの支那人には伝わってはいない様だ。1984年の「ゴジラ」での三田村首相が非核三原則にこだわり戦術核をゴジラに使うと言った米ソの提案を断る意味、「ゴジラVSビオランテ」で白神博士の台詞「ゴジラでもビオランテでもない、本当の怪獣はそれを作った人間です。」の意味、「ゴジラVSモスラ」での南野長官(宝田明さんが演じている)の「危険な弾を込めていたのは寧ろ私達人間なんだ」と言うゴジラシリーズの本質を現した台詞の意味、王の様な思考回路の持ち主には理解不能だろう。

ゴジラと言えども娯楽映画に過ぎない。だが、その中には人間に対するメッセージが込められている。いずれの作品でも人間の文明に対するしっぺ返しの象徴が登場する怪獣ではないだろうか?

人間が文明を発達させる事と自然破壊は表裏一体である。我々は間違いなく文明の恩恵を受けて生活しているが、その裏側の自然の声の象徴としてゴジラを始めとする怪獣の存在意義がある。王の様に軍国主義にこじつける思考回路の持ち主にはその意味は理解出来まい。こういう馬鹿げた論理は一笑に付して娯楽映画は娯楽映画、だがその秘められたメッセージを受け止めて自分なりに考える事が重要ではあるまいか?