ノーベル平和賞と憲法9条

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※受賞おめでとうございます。

今年のノーベル平和賞イスラム武装勢力タリバンに襲撃され重傷を負いながら、女性や子供に教育機会を与える必要性を訴えているパキスタン人のマララ・ユスフザイさんと、インドで貧しい子供や若者に教育機会を作る活動を続けるカイラシュ・サティヤルティさんの2人だった。左翼連中の推していた日本国憲法9条(を有する日本国民)は受賞とはならなかった。

http://sp.mainichi.jp/feature/news/20141011k0000m040013000c.html

今回受賞の二人はノーベル平和賞に相応しいと思うし、妥当な選定だと思う。二人には祝意を表すると共にその活動の更なる成功を祈りたい。

さて、落選(?)した9条信奉者の一部にはこの様などこまで本気なのか分からないメッセージを出している者もいる。こうなると独善的だとしか思えないし、発想がまるで韓国人だ。

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※正気には思えない。

ノーベル賞の内、平和賞のみは他と違いノルウェーが選定する。また他の部門は受賞者の「これまでの業績」を基に選定されるが、平和賞のみ現在進行形の業績や将来への期待を込めて授与される場合がある。前者は1994年のパレスチナアラファト議長、ラビン・イスラエル首相、ペレス・イスラエル外相(肩書は当時)のケース(パレスチナ問題は今も未解決だ)、後者は2009年のオバマ米大統領のケースがそうだろう。尤もその後彼等が平和賞受賞者として相応しい結果を出しているかは別だが…

そもそもノーベルは遺言で平和賞を「国家間の友愛関係の促進、常備軍の廃止・縮小、平和のための会議・促進に最も貢献した人物」に授与する様述べている。現在ではこの「平和」には国際平和、軍備縮減、平和交渉以外に人権擁護、非暴力的民主化、民族独立運動、保健衛生、慈善事業、環境保全も含むと広く解釈されている。では憲法9条の条文・解釈、理念などがこれらのどれに該当して人類の役に立ったのだろうか?ノーベル賞は「人類の役に立つ」業績に対して授与されるものだ。つまり平和主義を謳っているのは論を待たないが、現状人類の平和の役に立っているとは言い難い。従って9条の理念が如何に崇高であっても人類の平和の役に立たない限り候補としてノミネートされても受賞は難しいだろう。

…この点は受賞のポイントとも言える。例えばアインシュタイン1921年ノーベル物理学賞を受賞しているが理由は相対性理論ではなく、光電効果の研究に対してであった。こちらの方が人類にとって実用化したメリットが大きかったからだ。

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※本人にとって最大最高の研究成果が受賞対象とは限らない。


つまり、9条が例えいくら日本の安全保障に寄与したと仮定しても日本だけでなく、人類に寄与しない限り受賞出来まい。左翼連中にはせめて9条の精神と条文で現在休戦中の朝鮮戦争を完全に停戦させてから推薦して貰いたい。

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※そもそも趣旨に合うか疑問。

つまり憲法9条をノーベル平和賞にしよう
なんて発想は自画自賛でしかない。他国が真似しない理由を考えてはいまい。それ以前にそもそも憲法自体が日本人の発案ではない。こういうのを「他人の褌で相撲をとる」と言うが連中は恥ずかしくないのか?

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※理解してない人



仮に受賞しても受賞式に出るのは恐らく首相になるだろう。その場で安倍首相が唱える「積極的平和主義」のアピールにされたらどうするのか?そこまで考えてはいまい。…浅薄な連中だ。
つまりノーベル平和賞改憲阻止の抑止力にしようと政治利用する発想自体が根本的に間違っていると言う事だ。

憲法9条を自画自賛してノーベル平和賞を授与されようなどと野望を抱くのは自分の歌を自画自賛して紅白歌合戦に出場する野望を抱く某ガキ大将みたいなものだ。彼の歌声は周知の通りだが、外国から見た憲法9条も似た様なものではないか。それに気付かない連中はおめでたい思考回路の持ち主だ。とてもじゃないがジャイアンを笑えまい。

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※「自分の歌は上手い」とリサイタルのチケットを押し売りするジャイアン。「自分達の憲法は素晴らしい」と平和賞に売り込む左翼連中。五十歩百歩。