ジャイアンのリサイタル程度の意味しか持ち得ない支那の「抗日戦争勝利70周年記念式典」

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※自己満足集会参加者一同と恫喝外交の一幕。

支那メディアと言うものには「言論の自由」「表現の自由」「思想信条の自由」など一切無く支那共産党に都合の良い事だけを垂れ流す支那共産党御用メディア以外の何物でもない。支那共産党の都合の為であれば如何なる嘘出鱈目捏造歪曲曲解でも何でもアリだと言っても過言ではないが、それ故狂った記事を出して産経新聞に報道される事になる。…尤も産経以外のメディアはこういう記事を見て見ぬふりをするのだろうが。

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http://www.sankei.com/world/news/150906/wor1509060027-n1.html

環球時報安倍首相が支那の「抗日戦争勝利70周年記念式典」とやらに参加しなかった事を批判した上で「こんな日本政府と付き合うのは、現代中国の不幸と言わざるを得ない」等と妄言を吐いたと言う。この時点で既に狂っていると断言して良い。

不肖筆者も再三述べているが、そもそも支那共産党が正式に国家樹立を宣言したのは第二次大戦後の話である。その時点で「抗日戦争勝利70周年記念式典」などを開催する資格などない。どうしても第二次大戦時に支那共産党が正式国家であったとしたい人はその主張の前に当時一体何処の国が支那共産党を正式国家として承認していたのか御明示願いたい。

式典を開催するのは勝手かも知れないが招待されたところで参加するか否かの判断は招待された国が行うものである。その判断にどうこう言われる筋合いなど最初から無い。それともこの式典はジャイアンのリサイタル同様の「招待されたら参加強要」の「悪魔の式典」だったのだろうか?

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支那の式典を風刺するならこうなる。


その上で「こんな日本政府と付き合うのは、現代中国の不幸と言わざるを得ない」等と抜かしたのは式典の本当の目的が各国が参加する前で日本を貶めて恥をかかせようという魂胆があったものと考えて良かろう。それだけ安倍首相の存在が支那にとっては「目の上のたんこぶ」なのだろう。しかし支那の不都合は日本の好都合である。支那が反対する施策は日本の国益に資するものなのだから当然日本人として賛成するべき施策であると言い切って良い。支那は式典前には「特定の国を対象にした式典ではない」等とほざいていたが、式典の名称を見ただけでそうではないと断言出来る程の稚拙なウソである。

「こんな支那共産党と付き合うのは、現代日本の不幸と言わざるを得ない」

…と、言うのが正しい認識である。日本はこれまで支那ODA等でどれだけの支援を行って来たのか、そして支那共産党がその恩を恩と思わないどころか仇で返している事実を考えれば必然的にそうなるだろう。

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支那へのODAの例。これを恩とも思わず仇で返すのが支那である。

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※善意のODA援助はこう悪用される。

それどころか環球時報菅義偉官房長官潘基文の出席に不快感を示したことに「ほとんど狂っている」と非難している様だが「完全に狂っている」のは当の環球時報そのものである。潘基文支那への事大主義根性丸出しであったがその支那へのおべっかこそ異常且つ狂気の沙汰である。

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支那の本音を雄弁に語るジャイアン

…要は支那の行った「抗日戦争勝利70周年記念式典」など本質的な意味ではジャイアンのリサイタルと意味はさして変わらない、と言えるのである。先ずは鏡を見て己の身の程を客観的に知ることだ。そして周囲の反応もそうだ。ジャイアンのリサイタルを聞かされるのは堪ったものではないが、この式典に参加させられるのも同様であろう。漫画を見る限り自らジャイアンのリサイタルに積極的に参加するのは相当酔狂だとしか思えないが、支那の式典に喜んで参加した潘基文朴槿恵の反応が異常であるのも同様であろう。所詮はそんな程度なのである。寧ろ参加しないのが当然且つ正解の対応であるのだ。こういう異常論調のメディアからの批判は寧ろ光栄であると捉えても良かろう。そもそも日本は第二次大戦後の「冷戦」の戦勝国であり、支那は敗戦国側である。未だに第二次大戦の結果に拘る愚昧な国は冷戦の敗者側である。例えて言うならば「のど自慢」に参加して当然ながら即刻落選したジャイアン「俺のリサイタルは開催する度に沢山の参加者がいるのに…」と嘆く様な物である。日本としてはそれを一歩引いて冷笑しているのが正解である。所詮は冷戦の敗戦側の「負け犬の遠吠え」程度の意味しかないのだから。

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※これも現在の支那を指した名言であろう。