学校で「アベ政治を許さない」のクリアファイル。「許さない」のはそういう愚行そのものだ。

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※どう考えても政権批判と言う政治的メッセージ。

こういう事をするのは「教育」の名に値しない。「狂育」とでも言うべきであろう。

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http://www.asahi.com/articles/ASHBJ5VCNHBJIIPE020.html

…北海道内の高校にアベ政治を許さない」と書かれたクリアファイル等の文房具があったと言う。安保法の衆議院委員会採決時に民主党が用いたプラカードにあった「アレ」と同じ文言である。これを受けて北海道教育委員会は他の学校にもないか調査を開始文房具を配ったと言う教職員組合側は「教育現場を萎縮させる」と反発していると言う。

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※国会でもこのように使用された。

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※本来掲げるべき内容。

学校教育の場では政治的中立性が求められる。一方的に偏っているのでは生徒が多面的に物事を考察出来なくなるからであるのは言うまでもない。問題のクリアファイルだが、文言はどう考えても政権批判としか受け取り様がない。勿論安倍首相と言えど「完璧な首相」とまでは言えない。批判する意見があるのは「思想信条の自由」「言論の自由」の範疇であろう。個人的にそう思うのは大いに結構な話である。

しかし、である。公立学校の教員は公務員ではないのか?そうである以上、職場たる教育現場では「個人の権利」よりも「公益」の為に行動するのが筋ではなかろうか?それが嫌なら公務員である必要はなかろう。日本には「学問の自由」もあるのだから自身の思想信条に合致した人間教育を行う私学で教鞭をとれば良い。公務員がその職場で「公」より「私」を優先するのは本末転倒であると言える。

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日教組反日集団。こんなのに教育されたら反日に洗脳される。「狂育」と呼ぶべきであろう。

不肖筆者にもこの「教育の中立性」の問題の当事者になった経験がある。筆者は高校時代、学内新聞の編集長をしていた。筆者の在学当時、修学旅行は九州で、長崎の原爆資料館訪問は自由行動でも必須の訪問先であった。

その長崎原爆資料館訪問の感想を記事にしたのだが、丁度その時フランスが南太平洋ムルロア環礁で地下核実験を国際社会の批判を無視して強行している最中でもあった。そこで記事にそんなフランスへの批判を込めたり、使用したイラストにも「反戦平和」の意味合いがあるものを選んだ。…記事はどちらかと言うと今の筆者からすると意外にも左翼的な立場でかつイラストも(画像をネットで検索したが見つからなかった…)その手の市民団体が使いそうな物だったのだが…

それでも校長に「記事が政治的ではないのか?」とダメ出しされたのだ。当時は若かったせいか反戦平和の希望と、核兵器の恐ろしさとそれを使う愚かさを書いただけなのに何処が「政治的」なのか?」と納得いかなかったが、今にして思えば校長は教育者として正しかった。学校内は右でも左でもいけない。その時筆者の書いた記事は明らかに左翼的立場だった。そのまま掲載されていれば学校新聞と言えど筆者の記事一つで左に傾いていた。それを筆者は自覚していなかったが、校長がそれを止めたのだ。「教育の中立性」とはこう言う事なのだと改めて思う。

そういう経験があるからこそこの北海道教育委員会の対応は当然であると筆者は思うのである。明らかに政権批判としか思えないどころか、国会で実際にそう使われた文言を教育現場に持ち込むなど言語道断である。職員組合は「教育現場を萎縮させる」と言うが、仮にクリアファイルの文言が逆に「安倍首相支持」の内容だった場合「教育の中立性」を真っ先に叫ぶのはこの教職員組合に決まっている。そう言うダブルスタンダードはこの手の連中の常套手段ではないか。被害者ぶるだけ野暮である。

…とは言っても回答は任意だと言うから配布した人間の特定など詳細は恐らく不明のままではないだろうか?ウヤムヤになって終わりそうな予感がするが、それでも問題の本質は変わらない。少なくとも政治的中立性、と言うのは「反政権」を意味するものではない。また公務員が職場で「公益」より「個の権利」を優先させてはならない。まず必要なのは教育者にそう言う認識を持たせる事である。「教育者の教育」が必要であろう。そうでなければ「教育」が「狂育」になってしまう。…やはり日教組は「日本の癌」であると再認識させてくれる事件である。

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※問題発言にされてしまったが、これこそ正論である。