原発よりも危険な反原発派のロジック

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※判決が出て反原発派は意気揚々だが…?

津地裁が運転中の高浜原発3、4号機の運転を差し止める仮処分を決定したが、その後も関西電力の社長が「逆転勝訴なら原告に損害賠償を検討」と発言したりと、波紋を呼んでいる。ところが運転中の原発稼働差し止めに成功した反原発派が

「素人の裁判官が市民の代表として原発について判断するのは当然」とする「裁判官=市民代表」論をぶちまけていると言うのだ。産経新聞が皮肉混じりに記事にしていた。
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http://www.sankei.com/affairs/news/160402/afr1604020002-n1.html

原発稼働の是非についてはさておきそもそも裁判官が「市民の代表」と言えるのだろうか?結論から言ってしまえば答えは「NO」である。

現行制度では国民が三権の一つ、司法に関われるのは最高裁判所裁判官の国民審査のみである。しかもこの制度は投票のルールの不備によって(罷免したい裁判官の欄に×を付けないと信任扱い)、殆ど意味をなしていないのが現状である。そして高裁以下の裁判官の任免に国民が関与するシステムは存在しない。これの何を以て「裁判官が市民代表」と言えるのか甚だ疑問である。

そもそも原発稼働の是非を巡るこれらの裁判では様々な問題が指摘されているのも事実である。例えば原発稼働の是非を巡る裁判では四国電力伊方原発1号機の設置許可の是非が問われた平成4年に出た最高裁判決設置許可には「最新の科学的、専門技術的知識に基づく総合的な判断が必要」と判示。つまり安全対策等の実務はあくまで専門知識のある行政の判断が尊重され、司法はその判断に不合理な点があるかどうか、つまり法律に適合しているか否かを審査するべきとしているのだ。また

最高裁判決が同種の案件で下級審の判決を実質的に拘束しうる」

と言う裁判における暗黙のルールを前提にすればこの津地裁の決定は異例と言う他ない。

ではこの大津地裁の決定が、

「最新の科学的、専門技術的知識に基づく総合的な判断

のもと、「裁判官の良心と法律」に基づいてなされたものなのか?と言われると正直それも怪しい。
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※主な争点と、
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※今後の流れ。

高浜原発の安全性は、原子力規制委員会が審査会合を70回以上開き、約2年3カ月かけて関電が提出した約10万ページ(!)の申請書を詳細に検討した結果だと言う。これに対し津地裁はわずか4回の審尋で決定がなされた。1回の審尋で2万5千ページ分を検討したのであれば物凄い読解力と判断力である。そこまで原子力に精通しているのであればこの裁判官は裁判所より原子力規制委員会にいた方がよっぽどその才能を発揮出来るに違いない。同様に高浜原発の運転差し止めを命じた昨年4月の福井地裁の判決では、

主給水ポンプが安全上重要な設備であるとして、

「その役割にふさわしい耐震性を求めるのが健全な社会通念であると考えられる」

などと指摘した。が、その主給水ポンプは水を蒸気にしてタービンを回し発電するためにあるポンプなので、重大事故対策とは直接関係はない。寧ろ原発に対する無理解を露呈したに過ぎない。
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※その他の原発の審査状況の現状。

裁判官もまた「一人の国民」なのだから本人の思想信条として「原発反対」であるのは個人の自由の範疇である。だが、それと裁判のルールや法律上問題があるか否かの判断は別ではないのか?この大津地裁の決定に至る経緯を見ると裁判官が個人的な信条を優先させて決定を出した、と言う疑念は拭えないのである。…例え「脱原発」が正しい選択肢であったとしても。
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※本当にこう言うバカげた運動をしているのがいるから呆れてしまう。

そしてそういう疑問を抱かせる裁判を助長する「裁判官が市民代表」と言うロジック、こう言う主張こそ法治国家法治国家でなくす危険な発想である。反原発団体は

「裁判官の方々が、弱気になってしまうようなことがなかろうかと心配が生じる。そのようなことになっては、異議審の判断結果にも悪影響を及ぼしかねない」

「大津地裁の裁判官の皆さんに対して目に見える形で示して、正しい決定をしたのだという自信を深めていただくことが運動として重要ではないかと考える」

等と言うが、それこそ外部からの裁判への干渉以外の何物でもない。それを当然と思うこう言う手合いの連中こそある意味では原発よりも危険な存在なのである。
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※餅は餅屋、と言うが…?