死刑制度は必要か?

イメージ 1
※国民は死刑制度容認が圧倒的多数であると言える。

日弁連が「組織として」死刑制度の廃止を掲げる方針を固めた、と言う。
イメージ 2
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160903-00000050-asahi-soci

重要テーマへの対応を決めるため全国から会員が集う10月に福井市で開催される「人権擁護大会」で「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言案」を提出すると言う。そこでは被害者支援の重要さを説いたうえで、「残酷な罪を犯したとしても適切な働きかけで人は変わりうる」と指摘。刑罰制度は「犯罪に対する報い」だけでなく、人間性の回復と社会復帰を目指すべきで、それが再犯防止や社会全体の安全につながる、とするつもりの様だ。

現在世界各国で死刑を廃止・執行停止しているのは先進国を中心に140カ国にのぼると言う。死刑を存続させている国が少数派になっているのは間違いないし、それを「世界の潮流」と言われればそれを否定するのは難しいだろう。だが、その「世界の潮流」が常に正しい方向であると断言出来るだろうか?「世界の潮流」が常に正しい、と言うのであれば、世界の多くの国が憲法で採用している「緊急事態条項」を日本の法制度に採り入れる事に日弁連や記事を書いている朝日新聞は賛成するのだろうか?そうでないならば単なるダブルスタンダードでしかない。「安倍政権のやる事だから」と言うのはもっと理由にならない。朝日新聞は論外だが、日弁連にもこういう問いにまともに回答出来ないのであれば不肖筆者としては大いに疑問を感じざるを得ない、のである。

イメージ 5
※死刑判決は以上の要素を考慮して判断されると言う。


死刑廃止論者が死刑廃止を掲げる理由の一つに

「冤罪だった場合、取り返しが付かない」

と言うのがある。勿論その通りで死刑囚でなくても一度死んでしまった人間を生き返らせる、なんてのは不可能だ。だが、何処かの独裁国家と違って日本は死刑判決に至るまで三審制による裁判が必須である。裁判とは真実を明らかにする場であるのは論を待たないが、「被告人は冤罪」と主張しておきながら裁判をやってる間それを立証出来なかった弁護側の責任はどうなるのか?
また、死刑に関しては判決が確定した後、法務大臣が死刑執行命令に署名する前段階で、さらに法務省刑事局検事による裁判記録の審査がおこなわれ、健康状態に問題があったり、また冤罪の可能性があるなど執行に障害のある死刑囚が排除されていくと言う。事実上「四審目」があると言えそうだが、それでも「冤罪だったのに死刑判決が出た」実例は袴田事件をはじめ存在しているのが現実である。何でも「死刑制度」のせいにしないでそういう「冤罪だったのに死刑判決」と言う結果が何故起きてしまったのか?検察の立証方法や弁護側の法廷戦術、裁判所の判断にどんな間違いがあったのか?死刑を廃止する前にそういう検証をするのが先ではないだろうか?

また、

「残酷な罪を犯したとしても適切な働きかけで人は変わりうる」

とも主張する。日本における犯罪行為で死刑が有り得るのは以下の通りだが、
イメージ 4


例えば外患誘致。これは法定刑が「死刑のみ」である唯一の犯罪だが、例えば以下の画像の様な発想で日本に帰化した人間が出身国の国益の為に外患誘致罪を犯した場合、どの様な「適切な働きかけ」で「日本人として日本と言う国家の為に行動出来る」人間に矯正・教育出来ると言うのだろうか?
イメージ 3


それが出来るのであれば学校教育の段階で行われるべきだし、そうであるなら日本の犯罪発生率はもっと低くなくてはならないだろう。勿論再犯率は限りなく「0」に近くなくてはならないのだが…実際には平成26年度の一般刑法犯の成人検挙人員で再犯であった割合は以下の画像の通りである。日弁連はその数字を下げる為に一体何をしてきたと言うのだろうか?
イメージ 6


犯罪被害者の為に社会が為すべき事は被害者の救済、次いで犯人の処罰である。犯罪の本質は「他人の権利や自由、社会規範の侵害」であると言うならば加害者の人権などは二の次であるのは明白だ。その優先順位を吐き違えた主張に意味はない。「死刑廃止論」というのはそういう偽善であると言えるだろう。犯罪抑止力としても死刑制度は社会の必要悪であると言える。