光秀の書状は「本能寺の変」の真相に迫れるか?

イメージ 1
※何故本能寺で信長を討ったのか?その動機は謎のままである。

「戦国最大のミステリー」の一つとも言える


討たれたのが織田信長で、下手人が明智光秀、と言う事に異を唱える人は流石にいないだろうが、光秀が信長を討った「明確な動機や目的」、また「本能寺の変」それ自体に「黒幕」と呼べる存在があったのか否か?事件を読み解く上で肝心なその部分は未だに「ハッキリとした答え」と呼べるものはない、と言えるだろう。

それらについては諸説あるのだが、この度「本能寺の変」10日後に光秀が書いた、とされる手紙の「原本」が発見された。議論に一石を投じる存在になるだろうか?
イメージ 2
イメージ 3
※今回発見された書状の原本。

その書状、既に写しが存在する事は知られており、原本が見つかった事で内容の信憑性が裏付けられた、と言える。気になるその内容だが、宛先は紀州雑賀衆の反信長の武将土橋重治で、

「将軍(足利義昭)のご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です」

等と言う内容が示されていたのだと言う。
イメージ 4
※マンガでは本能寺の変での信長の最期は「カッコ良く」描かれる。

書状を発見した三重大の藤田達生教授は本能寺の変」の目的を「室町幕府再興」とする説を唱えているそうで、藤田教授の立場からすれば自説を裏付ける有力な証拠」となる可能性は高い、と言えるだろう。だが、本当に光秀は「室町幕府再興」の為に主君である信長を討ったのだろうか?

光秀は最初から信長の家臣だった訳ではなく、元々は足利義昭の家臣であった。この時代の史料として信頼されている「信長公記に光秀が初登場するのは1569年1月に足利義昭の宿所だった本圀寺が襲撃された際、義昭方として防戦した事だそうだ。当初は足利義昭織田信長、二人の主君に同時に仕えていたが、この二人は周知の通り不仲となる。しかし遅くとも義昭が信長打倒の為に挙兵した1573年2月までには信長の家臣、と言う立場を選んでいた様で、信長VS義昭の戦には「信長方として」参戦している。

だが義昭は敗れ、信長によって京都から追放され、それを以て「室町幕府の滅亡」とされていたが、本能寺の変の時点で足利義昭は「まだ将軍のまま」であり、毛利家の庇護を受けていた。そんな境遇下でも義昭は「室町幕府の再興」と「打倒信長」の野望を諦めてはおらず、協力者を探していた。そんな中で密かにかつての家臣だった光秀にも声をかけ、その理由はさておき、光秀はそれに応えた、と言う足利義昭黒幕説」に従えば「筋は通る」。

しかし、である。義昭を庇護していた毛利家はその時点で交戦していた秀吉との和議が成立するまで「信長の死」を知らなかった。義昭を庇護していたのなら結果はともかく、義昭が光秀に信長を襲わせる指示を出した事は把握できた筈である。そんな素振りは見受けられないし、そもそも毛利家が「足利義昭を庇護していた」と言っても本拠地にまでは入れなかった。義昭が毛利家の勢力圏の外れの鞆(広島県福山市)にいたのはそういう理由である。また、光秀が信長を討った当日に西尾光教と言う西美濃にいた武将に宛てた手紙には

「(信長・信忠)父子の悪逆、天下の妨げ、討ち果たし候」

と、「義憤で信長を討った」とも受け取れる内容が残っている。また、

イメージ 5
※変後の光秀の動き一覧。

本能寺の変」を引き起こしてから山崎の合戦で秀吉に敗れるまでの光秀の行動を見ると、

・生き残りの兵卒の追尾。

安土城にあった信長の財宝を味方にバラ撒いた。

・各地の武将に「自分の味方になる様」要請する手紙を大量に出す。

・朝廷の要請に応じて京都の治安維持を行い、同時に天皇や皇太子、有力寺社などに「寄附」を行う。

・淀城の修理

と、「自身の保身」に繋がる行動が目立つ。室町幕府再興」「足利義昭再入洛」と言う大義名分を前提に「本能寺の変」を引き起こしたのであればそれを真っ先に宣伝しても良さそうなのだが、そういう行動は見受けられない。また光秀が6月9日に信長の武将、細川藤孝に宛てた手紙には「本能寺の変」の動機を

「(藤孝の息子で光秀の娘婿の)忠興を取り立てるため」

としたり、

「(自身に味方してくれれば)好きな領国を差し上げる」

と、

「兎に角一人でも多くの味方」

と言う心理で手紙を大量に出して呼び掛けている様にしか思えない行動や、この日上洛して京都の治安維持にあたり、神道家の吉田兼見を通じて天皇や皇太子、朝廷や有力寺院などに寄附を行っている。

「朝廷から『本能寺の変を引き起こした正当性の御墨付き』を得よう」

とした行動とも思えるが、吉田兼見

「今度の謀反の存分儀雑談なり」

と、光秀の行動を「謀反」と認識していた様だ。そして秀吉はこの時点で明石まで戻ってきていたのだが、光秀はそれを知らず、秀吉が戻ってきているのを知ったのはこの翌日の10日である。

その翌日の11日に秀吉は尼崎に到着している。光秀は戦を想定して淀城や勝竜寺城を修復するのだが、到底間に合う筈もなく、準備不足のまま「山崎の合戦」に突入する事になる…

今回原本が発見された12日に土橋重治に宛てた手紙はそういう光秀にとって「緊迫した」状況下で書かれたものである。と、言うか既に秀吉軍と対峙しており、両軍の兵力差を考えれば

「一刻も早い援軍」

が欲しい場面で書かれた手紙、とも受け取れる。従って

「『室町幕府再興』は土橋重治を動かす為の『口実』」

ではないかとも考えられるのである。

そもそも光秀が本気で「室町幕府再興」の為に動いていたのなら義昭の元を離れただろうか?そういう考えに基づいて本能寺で信長を討ったのであれば光秀には既に大義名分があった事になる。しかし、最初からそれを宣伝せず、秀吉との合戦ギリギリのタイミングで持ち出すあたりに

「光秀は個人的理由で信長を討ったものの、世間からは『謀反』と受け取られ、焦って『大義名分』を後付けした」

とも考えられるのである。果たして真相は如何に?
イメージ 6
※真相は炎と共に消えてしまった…