歴史認識の形成に多様な見方は必要だ


※未だに戦犯扱いなのは差別的取扱いである。

「所謂」東京裁判でインドのパール判事が

「被告人全員無罪」

とする意見書を出した事は良く知られている。だが、もう一人、オランダのレーリンク判事もまた、広田弘毅元首相や東郷茂徳元外相らの

「文官無罪」

を主張していた事は余り知られていないのではないだろうか?
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※こういう判事が居た事を忘れてはならない。

産経新聞報道しているが、レーリンク判事が日本滞在中に書き残した日記や書簡の内容が明らかになった。産経のスクープだが、実際の裁判の当事者、それも判事と言う立場であった人物が残したこれらの資料も後世の研究に役立てられて当然だし、存在が明らかになった以上、無視した形での歴史認識は形成されるべきではない。

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※法学の常識では東京裁判ではB級戦犯しか裁けない。

…結論から言ってしまえば東京裁判ポツダム宣言を前提にしている以上、そこに示されていない「平和に対する罪」「人道に対する罪」を問うことは法学の前提を欠いた行為だ。東京裁判を認めない保守層の主張はコレが根拠である。尤も連合国もそれは百も承知で、だからこそサンフランシスコ平和条約にわざわざ「判決の受け入れ」や「戦犯の赦免に連合国の同意」を入れたのだろう。文字通りの「無理を通して道理を引っ込めさせた」状況である。
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※こうして訴因から「殺人」は取り下げられた。

レーリンク判事の残した日記や書簡で注目したいのは彼には偏った情報しか与えられなかったものの、彼自身が見聞した日本や日本人を通じて被告人の一部ではあるが「無罪」であると言う心証を得てきた事であろう。そして東条英機元首相を「有罪」としながらもその人物を高く評価していた。その「事実」と「意味」を考えなければ東京裁判に関するあらゆる考察はその意味を無くす、と言う事でもある。裁判の結果だけを見て「日本が侵略戦争を行った」と断定するなど「論外」と言う事である。まずは謙虚に受け止める事である。