教育勅語の現代的アレンジは必要な理由


※問題発言ではない。

内閣改造が行われ、文科相に就任した柴山昌彦文科相教育勅語に関して

「現代的にアレンジして教えよう、と言う動きは検討に値する」

と述べた事を国賊野党の阿呆共が早速問題視し、柴山文科相の辞任要求、更に安倍首相の任命責任を追及して連中の悲願である

「安倍首相退陣」

に結び付けようとしている。だが、この柴山文科相の発言を

「問題視する事が問題」

だと言える。



下記は「氷山の一角」でしかないがこの柴山発言で阿呆が沢山釣れた。


そもそも安倍政権としては

教育勅語を積極的に教育に活用する事はしないまでも憲法教育基本法に反しない形で教材として活用する事は否定しない」

と言う立場である。柴山文科相の言う

「現代的にアレンジして活用」

と言うのはその範疇なのは明白だ。しかもそれは柴山文科相の提案、ではなく、「そういう動きがあり、それは検討に値する」と言っただけでそうする、とは一言も言っていない。そして具体的に「どう現代的にアレンジして活用する」のか?それすら明確になっていないのに「そうする事」自体を批判するのはどうかしている。また、「それ以前の問題」として教育勅語



と、要するに「親孝行」「家庭円満、共助」「他者への信頼」「謙虚な振る舞い」「博愛精神」「自己研鑽」「社会に貢献」「遵法」「愛国心と国防精神の保持」を説いている訳だが、教育勅語を批判する国賊野党の阿呆共の言動を見れば悉く「教育勅語の精神の逆」である。共産党宮本岳志Facebook投稿にあるように閣僚を「バカ」「欠陥商品」呼ばわりしている姿はその典型であろう。


結論は既に出ている。教育勅語の精神を否定し、肯定する人を批判する考えを持つと

国賊野党レベルの人間にしかならない」

と言う事だ。それで満足するのなら個人の自由なのでそうすれば良いだけの話だが、先に挙げた宮本岳志辻元清美小西博之が「国会議員である」と言う事実を情けなく思ったりそれを恥ずかしい、と思う気持ちがあるなら教育勅語の精神を学んでイキナリ全部、とは言わないまでも「自分に出来る事から一つづつ実践する努力」をするべきであろう。

教育勅語を否定したり、批判する人間の思考に共通している要素に

「戦前の価値観は全て悪、誤り」

と戦前の価値観を全否定し、戦後73年の間でもたらされた価値観しか認めない、と言う要素がある。「敗戦の原因」をそこに求めているからだ。だが、戦争で負けた事を理由に

「それまでの価値観を全て悪、誤り」

と断じる事は「勝った者が正しい」と言う考えの裏返しでしかない。つまり「悪、誤りだったから戦争に負けた」と言う意味である。その「勝った者が正しい」と言う考えこそ「帝国主義そのもの」の発想であり、連中は戦後の価値観が「帝国主義から民主主義」とか言いながら「帝国主義の考え方で民主主義体制である安倍政権を批判」しているのである。壮大な自己矛盾だが、こういう連中にそれを理解する知能は存在しない。

国賊野党は自らの言動でそれを証明している。

民主党政権を思い出せば明らかな様に教育勅語に否定的な連中が国を動かすとロクな事にならない。理屈だけでは説明出来なくても結果として日本ではそうなっているのは事実である。何だかんだ言っても教育勅語の精神は日本の長年の「伝統」でもあり、国会決議で排除しようが影響力はあるのだ。それなら「影の支配」よりは「現代的にアレンジしてオープンj」の方がよっぽど良い。良くも悪くも教育勅語の精神は「間違ってはいない」のである。だから与野党問わず「アレンジして活用」する為の議論には積極的に参加して結論を出すのは「政治の責任」なのである。