安倍談話VS支那朝鮮

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※安倍談話、予想以上の素晴らしい談話だった。

…注目されていた安倍談話が発表された。

不肖筆者は安倍首相の会見をラジオで聞いたクチであるが、真っ先に出てきた感想は意外に思う方もいるのではないかと思うが「やられた…!」である。

恐らく習近平朴槿恵も同じ感想だったのではないかと不肖筆者は思っている。但し不肖筆者とは逆の意味で、だが。談話の焦点は「侵略」「植民地支配」「おわび」「反省」と言う支那朝鮮が談話に盛り込む様要求したこれらの語彙が実際に用いられるか否かであった、と言って良い。何処のテレビ局とは言わないがTBSの如く中継までもがそこに特化した愚劣極まりない局もあった程だ。テレビ朝日もそうだが談話の内容よりもそれらの語彙に焦点を当てるなどもっての他である。連中は骨の髄から腐った根性の持ち主であると断言して良い。
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※本末転倒の出鱈目報道をしたマスコミであった…


…成程、談話全文を読めば一目瞭然だが「侵略」「植民地支配」「おわび」「反省」と言う語句は確かに使われている事は間違いない。しかし、それをどの様な表現で用いるかについては支那朝鮮から言及が無かった。…当たり前だ。あったらそれは「明らかな内政干渉」以外の何物でもない。出来る訳がない。談話は「国際秩序」を主眼に述べられている。こうする事である程度「安倍カラー」を滲ませながら村山談話の出鱈目を正し、支那朝鮮以外の「世界」から受け入れられる内容にする事が出来た。誰の発想かは不肖筆者如きが窺い知る事は出来ないが、それが誰であれ、その一石三鳥の着眼点には最大限の敬意を表したい。それが不肖筆者の第一感想が「…やられた!」となった理由である。勿論良い意味でだ。
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習近平朴槿恵とは器が違う。

…同様に習近平朴槿恵が「…やられた!」と感じたのではないか?と思った理由は談話に盛り込むよう要求した語彙全てを使用したにも関わらず、自分達の期待が肩透かしに終わったからである。自分達の要求が反映されているのだから正面から談話を否定する様な表立った批判は出来まい。出来るとすれば精々以前からの言い分を繰り返すか、揚げ足取りか牽制球を投げる程度であろう。ニュースソースの記事は支那朝鮮の安倍談話に対する忌々しさ如実に出ている反応であるとも言えるだろう。これは安倍首相の作戦勝ちであり、また、そういう視点に気が付かず、談話に盛り込むよう要求した語彙は自分達に向けて使われるべきものであると勝手に思い込んでそういう発想を持ち得なかった習近平朴槿恵よりも安倍首相の器が上だった、と言う事に他ならない、と言えるだろう。安倍首相で本当に良かった、と心の底から思う。
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http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140023-n1.html

支那朝鮮以外の国々でも談話に好意的な意見が既に挙がっている。アメリカは「日本は全ての国の模範」とまで言って談話を歓迎する意向を表明した。
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http://sp.m.reuters.co.jp/news/newsBody.php?urlkey=idJPKCN0QJ1XK20150814
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※他国の反応。

…その他オーストラリアやインドネシアといった国々からも安倍談話を歓迎する声明が出ている様だ。即ち安倍首相が「日本と価値観を共有出来る国」として外交に力を注いだ国々は談話を歓迎し、逆に「日本と価値観を共有出来ない国」が談話に批判的な姿勢を見せている、と言って良い。…その「日本と価値観を共有出来ない国」というのは精々支那朝鮮位しか存在しないのだから、概ね支那朝鮮以外の世界に受け入れられる内容であると言っても良かろう。まさしく「日本が普通の国に戻る」第一歩足り得る談話である。ネット上を見る限り好意的な意見が圧倒的に多い様だ。
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※明確な回答である。

談話には「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」と言う一文がある。これこそ安倍談話の核心ではないかと筆者は思っている。「日本に歴史問題は永遠に言い続けろ」と宣った支那「被害者と加害者の関係は千年経っても変わらない。」等と抜かした韓国に対するアンチテーゼ、とも言えるが、「これ以上の謝罪はしない」と言う宣言であるとも言える。安倍談話は閣議決定を経て発表された。村山談話と同様の手続きであり、その瞬間から安倍談話が村山談話に代わり日本政府の公式見解になったのだ。これこそ全国の愛国者達が待ち望んでいた事である。従って国会質問であろうが、一般市民のネット上での討論であろうが、最早「過去の遺物」となった村山談話を引き合いに出して安倍首相やその支持者を批判する意味は全くない。一応「日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。」とか「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」と言った一節で村山談話を全体として引き継ぐ」と言う自らの発言とも矛盾しない配慮がなされている。実に巧妙である。

また談話では韓国については殆ど言及がない。そもそも当時「日本の一部」であったのだから当然なのだが、「韓国」と言う国名自体登場は一回だけである。残留孤児に言及するなど支那には一定の配慮が見受けられるが、韓国にはそれがない。安倍首相の韓国に対する姿勢を如実に反映させたものであるとも言えるだろう。

その韓国では安倍談話の翌日に朴槿恵の演説が予定されている。焦点は言うまでもなく朴槿恵が安倍談話を受けてどの様な対日姿勢を打ち出すか?にある。今まで通りの盲目的反日であるならば国民は支持するかも知れないが国際社会に韓国の異常性を自ら証明する事になる。逆に安倍談話の未来志向に同調する内容であるならば国際社会は理解を示すかも知れないが間違いなく国民にそっぽを向かれる結果が待っている。どちらを選ぶかは朴槿恵の勝手だが、そういう状況を招いたのも全て本人に原因がある。自業自得、身から出た錆、因果応報そのものだ。恐らく朴槿恵思い切った反日姿勢は打ち出せないのではないだろうか?9月に奇妙な式典を予定している習近平も同様だ。ここまで狙って談話の内容があの通りであるならば一石四鳥だ。安倍首相恐るべし、である。
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