歴史認識を考察するには

http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140119-00031744/

このリンクはジャーナリストの江川紹子さんが靖国神社及び遊就館に行って「国内問題として」靖国問題を考え、その意見を述べている記事である。

読んでみると筆者の予想通り批判的に論じている。それはいい。筆者は靖国肯定派だから江川さんとは意見が異なる。しかし「自分の意見と合わないから読まない。」と言うのも如何なものだろうか?

…江川さんは「靖国神社の時間は、昭和20年8月以前の段階で止まっているようだ。」と靖国神社及び遊就館を見て述べている。確かにその通りだ。だが、筆者はそれでいいと思うのである。

…誤解されぬ様先に言っておくが、筆者は戦前の軍国主義を礼讃するつもりはない。「それでいい」と言うのは以下の理由からである。

先の大戦を考察するにあたって「侵略戦争だった」と簡単に片付けるのはやや短絡的ではないだろうか?本当に侵略戦争だったのか?またはそうではなかったのか?当時の日本が何を考えていたのか?何故対米開戦の決断に至ったのか?それらを知る事が先の大戦を考察するには必要ではないだろうか?そういう史料や先の大戦について戦争を体験していない我々の世代が多面的に考えるきっかけを与えてくれる場所と考えるならばたとえ遊就館の認識が「大東亜戦争肯定」でもいいのではないだろうか?それが「それでいいと思った」理由である。

…とはいえそれでも靖国神社を否定的に考える方もいるだろう。人によって感じ方は違うのだから当然の事である。靖国神社が戦前の国家神道の中心であったのは間違いないが、敗戦を経て現在に至るまで「戦没者追悼」の側面を持ち続けているのは何故なのか?GHQ靖国神社を潰そうとしたのは事実だが、何故そうならなかったのか?否定的に考える方にもその理由と経緯は知っていて頂きたい。

…それ故に支那の論理の如く「日本の敗戦を理由に」靖国神社を否定的に捉えるのは間違っていると筆者は思う。
敗戦は紛れもない事実だが、敗戦の原因は日本が間違っていたからなのか?勝った者が全て正しいのか?勝った者が全て正しいと言うならそれは弱肉強食の肯定、即ち帝国主義の肯定に繋がる。
また敗戦でそれまで持っていた価値観は全て否定され、新たな価値観を勝者から受け入れなくてはならないのか?

…先日亡くなられた元陸軍少尉の小野田寛郎さんについて「多くの日本人にとって忍耐、忠誠、犠牲といった戦前の美徳を体現する存在だった」と、ワシントン・ポスト紙は好意的に評しているが、では敗戦を経て「忍耐、忠誠、犠牲」は美徳から何になったのか?

…敗戦を経て、日本人の中で変わった価値観とそれでも変わりない価値観があると言える。それを見定めて、敗戦で失った「本来日本人にあるべき良い価値観」を取り戻す事が「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」のならばそれは結構な話であろう。尤も「軍国主義の復活」がそれに該当しないのは論を待たないが。