史料一つで変わる歴史認識

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日本の戦国史最大の謎と言っても過言ではないであろう「本能寺の変」。織田信長重臣で信頼も厚かった筈の明智光秀が突然信長を急襲したその動機は長らく不明で諸説入り乱れていた。

最初の謎は光秀の単独犯なのか、それとも黒幕がいたのか、であろう。黒幕の疑惑がかけられたら人物を挙げれば羽柴秀吉徳川家康足利義昭などきりがない。中には朝廷やイエズス会が黒幕だとする説も時折目にする程だ。

一方単独犯としても動機には諸説ある。直前の徳川家康接待の不手際を叱責され面目を失った為とか、領地替えを命じられたものの移転先は自ら攻め取る必要があった為将来に不安を抱いたとか、信長の手薄を知って天下への野望に火がついた衝動犯だとか、はたまた平氏を名乗った信長が将軍になる可能性が出た為、「将軍は源氏」という不文律を理由に源氏の流れとされる光秀がそれを潰す為だったという珍説まで出た程だ。

しかし、土佐の長宗我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと言う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140623-00000118-mai-soci

その手紙は四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあった為、信長と元親の仲介役をしていたようだ。光秀が信長の四国討伐の方針に納得していなかったのが原因の一つという「四国説」がある。「光秀は態度を軟化させた元親をはじめ、重臣斎藤利三らと婚姻関係があった長宗我部家を守るために、信長の四国討伐を止めようとしたのでは」と、言うのがその主張の核心と言えよう。

信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」と通達したが元親はこれに反発。しかし元親が利三に宛てた翌年5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化させていた。しかし5月7日の時点で、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていた。光秀は元親が信長に恭順する姿勢を示していたにも関わらず討伐軍を準備させた信長に不信感を抱き自分の重臣の縁者を守る為に京都に手ぶら同然でいた信長を襲った…

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…この史料一つで四国討伐のいざこざが本能寺の変の原因と断定するのはまだ時期尚早であろうが、この説を裏付ける有力な史料である事に変わりない。また本能寺の変の原因は一つではなく、複数の原因が複合した可能性も有り得るが、その場合、長宗我部家を無視した説は説得力に欠けてしまうのではないだろうか?

歴史を語る際、新たな発見一つが今までの認識を一変させる可能性は常にある。場合によっては今までの定説が完全な誤説になったり、認識が逆転する事もある。

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しかし不思議な事に所謂慰安婦問題や南京大虐殺では幾ら新たな史料や証拠が出ても認識が変わる事はない。何故だろうか?歴史を語る際に「この事件は例外」などないのである。歴史認識は史料や証拠に基づいて正しく行うべきだ。