ハリウッド版「ゴジラ」

※本記事は現在公開中のハリウッド版「GODZILLA」についてです。内容を御存知でなく、かつこれから映画を見に行く予定の読者様にはネタバレに繋がる内容が含まれています。悪しからずご了承下さい。

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…盆休みで帰省していた友人とハリウッド版「GODZILLA」を都内の映画館で鑑賞した。話題作でもあり、筆者も昔はゴジラ映画はよく見たクチである。是非とも映画館で鑑賞したい作品だった。

鑑賞した映画館、前回訪れた時に見た映画もゴジラゴジラvsモスラ)だったのを思い出した。不肖筆者にも意外にもゴジラと縁があるのか。

一言で感想を言ってしまえば「これは映画館で鑑賞すべき映画」である。特にクライマックスのサンフランシスコでのバトルの迫力は映画館のスクリーンでこそ真価を発揮するであろう。ストーリーも中々上手く出来ていて時間を忘れて見入ってしまう。

…作中には東日本大震災を連想させる「地震被害」「津波」「原発事故」とフルコースでの登場の為、不快感を催す方もいるかも知れない。主人公のフォードは原発事故で母を、地震被害(にされてしまう敵怪獣ムートーの出現)で父を失う悲劇に見舞われる。フォードは母を失った悲しみを「でも乗り越えた。」と語る。それは日本が東日本大震災福島原発事故から立ち直るには避けては通れない事の様に感じた。



監督はギャレス・エドワーズ。まだ30代の若い監督だ。本人もゴジラ映画のファンだったそうだが、随所に過去のゴジラ映画のオマージュと思われるシーンがあった。どうやら随分研究していたようだ。

先に登場するのは敵怪獣ムートー。ストーリー上人類の脅威、敵になるのはこちらである。核をエネルギー源にして古代ではゴジラに寄生して繁殖するという設定である。こちらは雄と雌が登場し、コミュニケーションを取る、卵を産み繁殖するといった「生物の延長線上の存在」である。また電磁パルスで電子機器を無効化してしまう能力があり、これで米軍はほぼ無力化されてしまう。凄い能力で斬新な発想だが、電子機器のない古生代にこの能力がこの生物にとって何の役に立っていたのかは謎である。 

ゴジラと雌雄のムートーの戦いの最中にフォード達はムートーに奪われた核弾頭の回収に成功する。その際フォードはガソリンでムートーの巣を焼き払い、卵を全滅させる。それに気付いたムートーの雌が巣に戻る(この為ムートーはゴジラに各個撃破されてしまう。)が間に合わない。付近にいたフォードを発見して顔を近付けて睨み付けるシーン、98年版「GODZILLA」でも同様のシーンがあった。

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一方のゴジラは日本のそれと違い、人間など最初から眼中にない。ムートーと戦うのは決して人間を守る為ではないが、積極的に人間や街を攻撃する訳ではない。しかし人間の攻撃が全く通用しないのはお約束。しかもゴールデンゲートブリッジで超至近距離から戦車の主砲を喰らっても意に介さない。

…戦いの終盤、ゴジラの背ビレが発光して……

出た!!放射能熱線!!これでムートーは止めを刺される。ゴジラと言えば熱線はお約束。やはりこれがないとゴジラではない。だが、今回のゴジラの熱線はかなりのエネルギーを消耗するようで、日本のゴジラと違って気軽に使えないようだ。文字通りの「奥の手」である。

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映画のテーマを象徴したりストーリーを予見する如き台詞の多い渡辺謙さん演ずるセリザワ博士。やはり印象的なのは核弾頭の使用を決定したステンツ提督に反対して父の形見の懐中時計を見せるシーン。時計は止まったまま。その時刻は「1945年8月6日8時15分。」言わずと知れた広島に原爆が投下された時刻。これだけは日本人でないと演じられない。被爆国として。そして反核映画「ゴジラ」を産んだ国として。

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もう一つ。「人間は自然を支配していると自惚れているが実際はその逆だ」と言う台詞。人間は特別な存在で万物を支配出来ると言う西洋的思考にキツい一言。そしてその通りの展開。ゴジラには反核と文明批判の側面があるが、それをセリザワ博士は表している。

しかし映画でおかしな設定もある。例えばビキニ環礁の水爆実験。作中ではゴジラ抹殺の為実験名目で敢行されたとなっているが、これだけでテーマの意味を半減させる。核を持つ国の驕りから脱却出来ていない証左である。また、日本の街の描き方が酷い。特に原発事故を起こすシャンジラ市。あんな狂った都市計画は有り得ないし、M6.3の地震で日本は壊滅しない。まぁ、真実の情報を隠蔽するのは洋の東西も時代も問わず同じだが。

ラストで倒れていたゴジラが突如立ち上がり海へ帰る。「ゴジラvsビオランテ」のラストのオマージュなのだろうか?

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日本で新たにゴジラ映画を作るとなると今作以上でないと納得はしない。その意味でも良くできた映画であろう。