「私はシャルリ」であるべきか

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※意味が変わってないか?

フランスどころか世界中に衝撃を与えた「シャルリ・エブド」襲撃事件。「犠牲者を追悼し、テロ、暴力に屈せず表現の自由報道の自由を守る」という大行進はフランス全土で370万人にも達したそうだ。

首都パリではオランド仏大統領がイスラエルのネタニヤフ首相やパレスチナ自治政府アッバス議長など各国首脳と腕を組んで行進するという歴史的な大行進となった。だが表現の自由が特定の対象の誹謗中傷や侮辱となってしまう場合、それは表現の自由の範囲を越えている。 要は「多くの西洋人にとって言論の自由とは、『俺の好きな考えは何があっても守られるべきで、俺の嫌いな人たちの気を悪くする権利は尊重されるべきだが、他のグループに属する人たちの権利はどうでもよい』という意味だ」と言った、皮肉を込めた指摘の様な唯我独尊的な思考回路があるのではないかと言う疑念が常に付きまとう。

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※こういう考えが問題の根幹なのでは。

そんな中日本では、安倍首相が「言論の自由報道の自由に対するテロであり、断じて許すことはできない」とコメントした。またオランド仏大統領に対し、「この困難な時に、日本はフランスと共にある」とメッセージした。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150115-00010000-fsight-int

上記リンクの記事は日本の対応を「通り一遍」と批判的に書いている。日本の言動が消極退嬰に映る理由として、事件を「対岸の火事」とする傍観、イスラム教に対する慮り、具体的な気遣いに到らない日本流の「リップサービス」や「金で片付ける」付き合いの流れ、そして、テロ行為に対して強い非難のメッセージを流すことで「テロの標的になる恐れ」を回避した、といったところであろうか。としているが、本当にそうなのだろうか?

テロが世界の敵である事は論を待たない。それに対する非難は当然だ。だが先述したような「多くの西洋人にとって言論の自由とは、『俺の好きな考えは何があっても守られるべきで、俺の嫌いな人たちの気を悪くする権利は尊重されるべきだが、他のグループに属する人たちの権利はどうでもよい』という意味だ」という考えではまた同様の事件が起こっても不思議ではない。「表現の自由」の限界、という認識や「言論に対するテロは絶対に間違っている」、という双方の認識が必要ではあるまいか。

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マリア観音。江戸時代の隠れキリシタンが制作。観音像に見せかけたマリア像。

日本は長い歴史の中で多様な様々な価値観を融合させて新たな価値観を創造してきたと言えるだろう。それは日本が世界に誇れる事ではあるまいか。こういう経験をこの様な問題の解決に役立てられないか、と思ってしまう。それも「積極的平和主義」の一環ではないだろうか?何も世界中に自衛隊を派遣する事だけが「積極的平和主義」ではないはずだ。ローマ法皇も「表現の自由」にも限界がある、と言われた。言葉の暴力とそれに対する暴力の負の連鎖を止める事は出来まいか。

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※戦争だけでなく宗教もそうだけにもっと事態は厄介である。