「聖徳太子」を学ぶ事は日本人としてのアイデンティティを培う

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※「聖徳太子」の呼称は残る事になった。めでたしめでたし。

文部科学省が2月に公表した中学校の次期学習指導要領改定案で、現行の「聖徳太子」を「厩戸王」に変更したことについて、文科省学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、現行の表記に戻す方向で最終調整している、と言う。
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170320-00000049-san-soci
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170320-00000050-san-soci

現行指導要領では小中学校とも「聖徳太子」を授業で扱うと例示したが、今回の改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子厩戸王)」史実を学ぶ中学で「厩戸王聖徳太子)」に変更する、と言う計画だったが、パブリックコメントでは呼称の変更に批判的な意見が多かった他、教育現場の教師からも反対意見が出て、聖徳太子」の呼称を変更しない事にしたと言う。

この件に関して不肖筆者も職場でバイトの学生に現在の高校の教科書はどうだったのか尋ねたが、やはり「厩戸王」と言う表記だったと言う。一応厩戸王聖徳太子」と認識はされているので最低ラインは死守されている様だが、「厩戸王」と言う表記のなかった教科書で学んだ世代の不肖筆者からすればやはり違和感を感じる。
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※千円、五千円、一万円、全て登場しているのは聖徳太子だけ。

聖徳太子」については現在でも諸説あるのは承知している。非実在説」を唱える学者もいる。また、「厩戸王」と言う実在の人物に実際は誰が行ったか判らない業績や美談を載せた、とする意見も耳にした事がある。その真相はさておき、少なくとも「聖徳太子」が紙幣の登場人物としては最多出場を誇るほど親しまれた「歴史上の人物」として国民に認識されているのはまず間違いないだろう。それを「生前そう呼ばれていなかった」と言う理由で「厩戸王」にしてしまうのは不肖筆者も違和感を感じる一人だったが、表記が元に戻るのは素直に歓迎したい。

聖徳太子」とは没後100年以上経ってから呼ばれるようになった呼称である。幾ら立派な業績があるからと言っても自らそう名乗っていたのでは「一発でイメージ粉砕」である。「聖」も「徳」も自身ではなく、周りの人間の総意として認められて初めて使える文字だとも言える。そういう意味では「一般的に知られる聖徳太子の生き様」は「理想の日本人像」として永く定着している、とも言える。「聖徳太子」が何をしたのか?も重要ではあるが、それ以上に後世の人々が「聖徳太子」と崇めたその意味を知る事やそうしてきた「歴史」を知る事の方が「十七条憲法」や「遣隋使派遣」「冠位十二階」と言う歴史的事実を知る事より重要なのではないだろうか?そういう観点からも「聖徳太子」と言う呼称は存続されなくてはならないと言える。
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※こういう活動が行われたのは喜ばしい。

「歴史を学ぶ」と言うのは「年表に羅列された事象を暗記する」だけではない。行われた事象に込められた当人の思いやその意味を知る事が重要であり、現在の日本人としてのアイデンティティを培う事に繋がる。イキナリ小学生にそれを求めるのは無茶でも段階を追ってそうしていかなければ「日本人としてのアイデンティティ」は醸成されない。勿論GHQが仕掛けた「WGIP」など「もっての他」であり、「聖徳太子」の呼称云々以前に真っ先に改正すべき項目なのだが…

現在の日本人にとって身近な「聖徳太子の残した遺産」に「箸の使用」がある。日本での箸の使用は遣隋使派遣から帰って来た小野妹子からの報告を基に聖徳太子が推奨したのがきっかけだと言う。また十七条憲法では「和を以て貴しとなし…」と真っ先に言う。ここでの「和」とは「話し合い」と言う意味を含んでいると言う。故に「日本国憲法9条」などと言う外国からの価値観などに頼らずとも聖徳太子に学べば日本人は平和を志向出来るのだ。勿論現在で言う「民主主義」だって実践出来る。聖徳太子を学ぶ事こそが「WGIP」の呪縛を解く鍵になるかも知れない。
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※意外と知られていないのだが…