国民を殺している日本国憲法
※「国家観」を聖徳太子は既に示していた。
「我々日本国民が」憲法について考えるにあたって、「まずは御一読」を薦めたい興味深い指摘の記事である。
記事は
と、指摘する。
どちらも聖徳太子の時代の話であり、これを記述しない歴史教科書など有り得ない程だが、聖徳太子が煬帝にこの様な国書を送ったのは「隋の柵封体制に与しない」と言う宣言でもある。しかしながら現状では日本は「侵略への抑止力」は在日米軍頼み、と言う事実を否定する事は難しいだろう。「自分達の国を自分達で守る」と言うのは独立国家の大前提、と言えるが、日本国憲法はそれを拒否する。言うまでもなく前文と憲法9条の存在が問題なのである。前文の
《平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》
と、言う一節を是とするなら現在の支那や北朝鮮の何を以て「平和を愛する諸国民」と言えるのか?また何が支那や北朝鮮の「公正と信義」で、それを「日本が信頼すべき理由」を明確に示すべきだ。それすらせずにバカの一つ覚えの如く「憲法9条を守れ」なんて言った所で何の現実味も感じない。相手が聖者なら兎も角、支那や北朝鮮などその「聖者」の対極に位置するのだから、そんな相手に「性善説」など通用する筈もないのは火を見るより明らかである。護憲派にはそういう視点が欠けている。
※「聖者」の対極に位置する連中に「性善説」を求めてはいけない。
・超国家主義の廃止
・戦争遂行能力の抑制
・民主的傾向の強化
と言うGHQによる対日政策に基づいている。要するにアメリカは「日本人が1+1を3にも4にも出来る」と言う事を知っていた。そしてそれを恐れ、そうならない様に「個」を重視する様に仕向け、未だにそれが効を奏している。その呪縛から脱却しない限り「日本を取り戻す」と言う目標は達成できまい。
※十七条憲法はこれだけ「議論する」大切さを説いている。
元来日本人は「個」より「公」を重視する傾向があった。十七条憲法を見ても第一条の
「和をもって貴しとなす」
を見れば明らかである。その十七条憲法は第一条の他にも第十条や第十七条でも
「物事を議論して決める」
大切さを説いている。実際に日本は古来よりそうやって「政治を行って来た」のだ。
「物事を議論して決める」
と言う精神は明確に示されている。少なくとも「民主主義」と言う物は日本には日本の国情に合った形で遥か昔から存在していた事は間違いない。その意味と重みは当時建国して200年も経っていなかったアメリカには理解が難しいものだと言えるだろう。
「(前略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」
と、その意図を仰られている。
「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」
※勿論マスコミは報道せず。
※安倍首相の危機管理能力は群を抜いている。
※そんなの理由にならない。
安倍首相も言及した日本国憲法には規定がない「緊急事態条項」と言うのがある。大震災などの緊急事態発生時に限って一時的に「個人の権利」を制限してでも「公の秩序の維持」を優先させる、と言うのがその趣旨だ。勿論左翼陣営は反対一色だが、過去の大災害を振り替えって見ればその是非は明白である。
※「公」と「個」の優先順位も判らないとこうなる。
等と書いたビラを撒いて救助活動を妨害したと言うから正しく「ゲス」である。
東日本大震災の時、首相だった菅直人は自身の違法献金問題で退陣寸前まで追い込まれていたが、自民党は災害発生即「政治休戦」して「協力の申し出」を行ったが、民主党政権はそれでも政局優先だった。当時与党だった民主党の災害対策本部は自民党のそれより立ち上がるのが遅かった。しかも鳩山由紀夫は雲隠れ、小沢一郎も西へ逃げて塩の買い占めをしていたそうだが、被災地へいち早く救援物資を持って行った政治家は当時一議員でしかなかった安倍首相その人だった。
熊本地震の時、民進党の公式Twitterは情報拡散や被害者の安否そっちのけで一般ユーザーとバトル、日頃「自由だ権利だ」と主張するマスコミ共が被災地での取材と称してどれだけ被災者に迷惑をかけ、救援活動の邪魔になったか?御記憶の読者様も多いだろう。安倍首相の言う「緊急事態条項」が想定する事態が発生した際、「公」より「個」を優先する連中がこれらの様に何をしてきたか考えればその是非は自明であろう。
日本国憲法の存続はこの様なゲスを生み、「救えた筈の命」さえ見殺しにした。また竹島が韓国の侵略を受けた事で44人が死亡している。この様な憲法を金科玉条として墨守する意味が何処にあると言うのだろうか?それでも「日本国憲法を守る事に意味を見いだす」と言うのであれば
「人命より憲法が優先されるべき理由」
と言うのを護憲派は明確にすべきだ。
※日本国憲法は国民を殺している。
護憲派は何かにつけて「戦前の日本」を全否定するが、「戦争に敗けた事を理由に」「『それまで』を全否定する」ならばそれは「勝った者が正しい」と言う「帝国主義」と何ら変わりない。歴史を学ぶ事で「これから」のヒントを得られる事もあり得る。聖徳太子や坂本龍馬、また五箇条の御誓文で志向された「国家の在り方」から何らかのヒントを得れば「日本のあるべき姿」が見えてくるかもしれない。時にはそういう発想も必要なのではないかと思うのである。
※だからこそ改憲は必要なのである。