平和祈念式典の場を弁えない輩

8月9日は言わずと知れた「長崎原爆の日」。長崎が、と言うより「日本全体が」犠牲者への鎮魂の祈りに包まれる日…になる筈が、

「場を弁えない」

輩がそういう雰囲気を「ブチ壊し」にしてしまった様だ。

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長崎市長田上富久の平和宣言も「異例尽くし」だったと言える。保有国や「核の傘」の下にいる国々に対し、核兵器に依存する政策を見直すため、勇気ある行動を求めたのはまだ理解出来なくもないが、核兵器禁止条約を

「『ヒロシマナガサキ条約』と呼びたい」

と言い出したり、日本政府にも

「一日も早い(条約)参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直し」

を求めたりと、まるで

「『原爆を落とされた』事を『逆手にとって』自分達の要求を突き付ける」

かのごとき印象まで受けるほど主張がエスカレートしている様に思える。あくまで「この場」は「鎮魂と慰霊の場」であり、「主義主張を行う場」ではない筈だが…また、日本がアメリカの「核の傘」に依存した防衛体制からの脱却、となると、

「自力で核兵器からでも国民の生命の安全を担保出来る防衛体制の確立」

が絶対条件だ。その第一歩は憲法9条を改正して「それだけの軍事力」を合法化する事だが、それなら長崎市長はそういう「憲法9条の改正」に賛成するのだろうか?
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※原爆投下翌日に日本政府は抗議声明を出していた。因みにコレは朝日新聞

…個人的な事だが、不肖筆者が中学生の頃、勉学で御世話になった方が居たのだが、その方は長崎で被爆した経験を持っていた。そんな訳で不肖筆者としては少なくとも長崎での原爆投下については僅かではあるが被爆者本人から「生の声」を聞く事が出来た。それ故かこの長崎市長の「平和宣言」には違和感を感じてしまうのである。

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※場を弁えない輩。
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※しかも主張は原爆犠牲者の鎮魂・慰霊と関係ない。

だが、それ以上に最低最悪な連中はそういう「厳かな」式典の脇で

「安倍の式典参加弾劾!」

「川内玄海再稼働反対!」

辺野古新基地反対」

などと書かれた旗や横断幕を掲げ、騒がしくデモをしていた連中だろう。…どれも長崎原爆の犠牲者の鎮魂、慰霊には全く関係がない。この連中、

「8・9長崎反戦闘争実行委員会」

と、名乗っている団体なのだそうだが、

日本帝国主義がアジア各国を侵略したことを踏まえ、どのような立場で、戦いを作っていくのかが問われている」

等と、「反戦」を主張しながら「戦いを作っていく」つもりらしい。命名時点で大いなる矛盾を孕んでいる、としか思えない不可解なネーミングセンスだ。恐らく自分達のしている事の意味さえ理解していないのだろう。だからこういう「非常識」な蛮行が出来るのだとしか思えない。
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※評価はこの一言で足りる。

また、「NAZEN」なる組織もこの非常識な行動に参加していたのだと言う。「NAZEN」とは「すべての原発いますぐなくそう!全国会議」なる組織だそうで、警察庁から「中核派系」と御墨付きを得ているだけにそれだけで「まともじゃない」と判断するに十分だ。デモでは

「9条を守ろう」

「安倍を倒せ」

等とこれまた「原爆犠牲者の鎮魂・慰霊」とは無関係な主張しかしなかった。幾ら「集会の自由」があるとは言え、警察は「平和祈念式典開催」を理由に付近でのデモを却下出来なかったのか?式典には首相や市長、また外国の大使、等の要人も多数参列する。警備上の問題だってある筈だ。それともこの連中、最初から無許可でデモを行っていた、とでも言うのだろうか?流石に「そんな事はない」と思いたいが…
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※自分達さえ良ければ周りの事はどうでもいいのだろう。

いずれにしてもこういう

「自分達の主張しかせずに周りの事を考えられない」

自分勝手極まる連中が何を言ったところで

「何の信用も理解も得られない」

事は「火を見るより明らか」だ。そういう連中が

「安倍政権打倒」

原発再稼働反対」

憲法9条擁護」

辺野古基地反対」

日本帝国主義がアジア各国を侵略」

と、主張しているのだ。この時点で「それらの逆」こそが正論、と理解出来なければ行動力はさておき、その思考回路はこの「最低最悪の輩」と同じ穴の狢でしかない。左翼の主張、と言う物は何処まで行っても

「その程度の代物」

でしかないのだ。
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※それに尽きる。

安倍首相は

原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます」

と語った。マスコミは例によって殆ど報道しないが、安倍首相ほど

「戦争で亡くなった人々」

を悼む気持ちの強い首相はいない。それは

「戦争の惨禍を繰り返さない」

と言う決意の裏返しなのだが、それを理解しない人間には安倍首相の批判も、憲法9条の擁護も、また政府要人の靖国神社参拝の批判も、

「語る資格はない」

と言える。勿論近代日本の歴史についても、だ。

犠牲者を鎮魂・慰霊する場での自己主張は寧ろ

「犠牲者を冒涜する」

行為にしかならない。式典に参加するからには最低限、それ位の認識は持ってからにして貰わないと逆に外国から舐められ、「核の脅威が加速される」結果を生むかも知れない。いや、北朝鮮を見れば明らかな様に

「既にそうなっている」

のではないのか?本当に「核廃絶」を願うのであればまずは式典の在り方やそこで話す内容を見直す事から始めなくてはならないが、その「覚悟」はあるのだろうか?そもそも

「原爆犠牲者の鎮魂・慰霊」

を政治利用する事自体が根底から間違っている。「核なき世界」の第一歩はそこである。