「LGBTに生産性がない」と言う誤読

イメージ 1


自民党杉田水脈議員が雑誌に寄稿した記事で

LGBTへの行政支援への疑問」

を問うた所、

「差別を助長する」

と批判が沸き、デモ隊が自民党本部前で抗議活動を行う事態となった。


また、この件に関して二階俊博幹事長が杉田氏の記事について

「いろんな人生観がある」

と発言した事も問題視している模様だ。

その杉田水脈議員の記事、と言うのは以下の通りである。

LGBT」とは「L=レズビアン」「G=ゲイ」「B=バイセクシャル」「T=トランスジェンダー」の総称で


を意味する。杉田議員が記事で

《例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。》

と、主張した部分が特にやり玉にされている。またLGBT支援に取り組んでいると言うLGBT自治議員連盟」は27日、

LGBTへの差別や偏見を助長するとともに、子どもを産まない人、産めない人、障がいや病気などで経済的な自立が難しい人をも否定するものだ」

と抗議する声明を自民党本部に届けたのだそうだ。

結論から言ってしまうと杉田議員のこの記事、ここまでして騒ぐ程の事ではない。ここで言う「生産性」とは

「行政が動く=税金を投入する」

と言う前提で

「結果が出ないのが明らかな事に税金を投入する意味」

を問うているに過ぎない。同性愛は自由でも、「子供を作る」事は男と女でないと「生物学的に」不可能であろう。杉田議員の例で言えば少子化対策としてごく普通の夫婦に子作り支援をするとしても同様の支援を「生物学的に子作りしようのない」同性カップルにするのか?と言う意味である。勿論同性カップルが例えば養子を迎えて子育てをする、と言うなら当然普通の家庭同様の子育て支援が行われるべきだ。言い換えれば「平等」と「公平」は「似て非なるもの」だと言う事だ。それを端的に表現したのが下の画像である。杉田議員は右側の絵の立場で言っているのだが、杉田議員を批判する人達は左側の絵の立場で批判している、と言う事だ。
イメージ 3
※平等と正義、平等と公平は意味が違う。

それ以前の問題として同様の発言は過去に菅直人も行っていた事が明らかにされている。菅直人の場合は問題視しないが杉田議員の場合は問題視する、と言うならそれこそが「差別」ではないのか?


「同性愛」と言うのはキリスト教イスラム教では「禁止」の対象であったが、日本ではそういう事はなかった。僧侶の間でも「煩悩を克服する抜け道」として「衆道」は公然の事であったし、
イメージ 5
※戦国の世では普通の事だった。

戦国武将が自身に近侍する「小姓」とそういう関係になっていた例は数多くある。武田信玄に至っては小姓に浮気を詫びる手紙を送っており、それがどういう訳か現存している。それを初めて知った、と言う人でもそれ故に武田信玄の評価が変わる、なんて事はそうそうないだろう。日本には「同性愛に対する偏見や差別」など本来はなかったのだ。
イメージ 6
※堂々と主張した方が理解を得やすい場合もある。

また、杉田議員が指摘する様に「性的少数者」を「LGBT」と一括りにするのではなく、「T=トランスジェンダー」は「性同一性障害」と言う「障害」であり、他の「LGB」は当人の「性的嗜好」である。「分けて考える」のは当然であろう。「LGBT」などと「障害」と「個人の性的嗜好」を一緒にするから理解がされにくい、と言う側面もあるのではないのだろうか?だとしたら「性的少数者」の権利を主張するにしても最初から問題がある、とも言える。意図的に一緒にしているのなら

「障害者に便乗して権利を主張している」

と言った「疑い」まで出てくる。それは主張の仕方としては卑怯だろう。寧ろ「偏見や差別」を恐れず、堂々と議論に臨んで貰った方が良いのではないかとも思う。杉田議員は記事を書くにあたって当事者からキチンと話を聞いている。それによると

《生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらい》

のだと言う。LGBTの人達の感じる「生きづらさ」は社会そのものが全部悪い、と言う訳ではないと言う事である。メディアや左翼は「社会そのものが悪い」と言う論調で改善されない事を政権のせいにするが、こういう当人の気持ちに何処まで「本当に寄り添っている」と言えるのだろうか?

イメージ 7
※このシーンの問いかけは重い。

LGBT」が「性的少数者」と表現される様に裏を返すと世間の大多数は「LGBT」ではない。上記のマンガのシーンの様に「身体は男でも心は女性」と言うトランスジェンダーが温泉で「私は絶対女湯に入る」と主張した場合、「LGBT」でない大多数の女性は当人が「トランスジェンダー」だと頭で理解出来ていても「視覚的には男の身体」で女湯に入る、と言う行為を何処まで容認出来るだろうか?社会制度や「正義、公平、平等」と言う理念だけでは解決が難しい問題を孕んでいるのも事実であろう。

「少数者の主張」が「多数」を駆逐したり、抑圧する結果になるのは民主主義社会の在り方に反するが、だからと言って「多数意見で一方的に少数者を抑圧する」のも社会の在り方としてはどうかと思う。結局は話し合いで「何処を着地点にするのか」と言う話になるのだろう。杉田議員の記事がその「きっかけ」になるのなら大いに歓迎すべき事だが、実際には杉田議員を批判する連中がしている事は「単なる言論弾圧」に過ぎない。記事を出した朝日新聞、この記事では藤岡信勝氏の

「一方的に批判する人は、文章を正しく理解していない」

「『生産性』という言葉は、杉田さんが日常的に使っている言葉ではなく、引用符が施されており、政策論議のための次元の違う用語として引用されているだけだ。今回のことは、誤読に基づく冤罪というべきものだ」

と言うコメントを掲載している。この件、それ程「難しい問題」なのだ。杉田議員がこの件で謝罪したり議員辞職する必要はないと思うが、彼女の記事に納得しようがしまいが「冷静な議論」が必要なのは明らかだ。まず行うべきは「議論の土俵作り」からである。

※冷静に議論できる環境がまずは必要だ。