表現の自由はどこまで許容されるか

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※良く言えばブレないメディア、悪く言えば挑発的なメディア

フランスの政治週刊紙シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハンマドを風刺する画を掲載し、イスラム過激派に本社を銃撃され、17人が殺害された事件は世界に衝撃を与えたが、同紙は最新号で再びムハンマドの風刺画を掲載すると言う。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150113-00050112-yom-int

その表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら「ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)」との標語を掲げる風刺画が描かれている。この標語は仏国民が事件後、「表現の自由」を訴えるスローガンとして使ったものだ。

表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。また、「すべては許される」との見出しも付け、ムハンマドの風刺も「表現の自由」の枠内との見解を訴えたと言う事だが…?

これを「表現の自由」と言うのに何処か違和感を感じるのは筆者だけだろうか?先に断っておくが風刺画に対してテロと言う暴力で対応するのは絶対に間違っているし、間違ってもそれを擁護する事は出来ない。これを非難するのは当然だ。

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※今回最初に問題を引き起こした風刺画

だが、イスラム教では一切の偶像化を禁じているのは周知のことであろう。報道機関たる存在でそれを知らない筈はないだろう。また「シャルリー・エブド」は以前にもムハンマドの風刺画を掲載して火炎瓶を投げ付けられた事があると聞く。そういう経験があればムハンマドの風刺画を掲載すればイスラム教徒の反発は容易に予見出来たのではないだろうか?という疑問も当然湧く。…まぁ、ある意味「ブレないメディア」と言えばその通りかも知れないが…?

…これでは「シャルリー・エブド」の掲載した風刺画はイスラム教徒からすれば風刺どころか単なる挑発でしかない。事実カイロにあるイスラムスンニ派の最高権威機関アズハルはこれを批判する声明を既に出している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150114-00000003-jij_afp-int

問題はこれを「表現の自由」と言えるのか?という事である。

「自由」を口にする事は簡単で誰にでも出来る。だが、その「自由」にも限度があるのではないだろうか?間違っても「他人の権利を侵害する自由」や「他人に迷惑をかける自由」などは決して容認できまい。また韓国の様に「嘘出鱈目を並べ立てて相手を貶める自由」などもあってはならないのは論を待たない。

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※「自由」を口にする傾奇者はその反面の「責任」も自覚している。その真理は戦国の世から変わらない。

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※それを理解しておらず「自由」だけを標榜していた若者。真理を悟った時は既に手遅れだった悲劇。

「自由」と「責任」は表裏一体である。それを忘れて「無責任に」「自由」ばかり主張するのは如何なものか?言論に対するテロは絶対に容認出来ないが、また同時に「表現の自由」の限界と言うものについても考えなくてはならないのではあるまいか?文字通りの「何でもあり」「表現の自由」で片が付くならばヘイトスピーチなど問題にはなるまい。行き過ぎた「表現の自由」は「ペンの暴力」でしかない。「反テロ」は大いに結構だが「行き過ぎた表現の自由」の為に多数の人命が失われた事もまた重く受け止めなくてはならないのではあるまいか?フランスで新たなテロが発生しない事を祈る。