裁判官の劣化がもたらす弊害、政治でも同様ではないか?
…興味深い指摘であると言えるだろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160314-00010001-socra-soci
ニュースを見ていると時々「目を疑うような判決」を見かける事もある。記事が触れている
「1人で外出していた認知症男性が電車にひかれた事故」
この事故をめぐり、JR東海が男性家族に対して起こしていた損害賠償請求。最高裁は3月1日に男性家族の「監督義務を認めない」と言う判決を下し、男性家族の逆転勝訴が確定した。民法上には確かに「監督義務者の責任」という条項があるとはいえ、介護者に重い負担を強いる1審・2審の判決が余りに生活者の感覚や一般常識と乖離している、そう感じた方も多いのではなかっただろうか?
何故、この様な判決が出てしまうのか?と言う疑問に元裁判官の方が答えた記事である。それによれば裁判官が
「当事者の目線で考えられなくなっている。」
「何を裁いているのかという問題意識も希薄」
「介護を取り巻く現代日本の社会情勢を無視し、法律を杓子定規に適応している」
と言う問題点がある様だ。
…普通に生活していれば裁判所のお世話になる、なんて事はそうそうないのだろうが、これは重要な指摘ではないだろうか?
これは我々が政治について考える際も同様なのではないか、と感じる。特に
「社会情勢を無視し、法律を杓子定規に適応している」
と言う指摘、例えば安保法についての議論で反対派の主張はこれに該当するものが多く見られる。国会議員であっても同様だ。記事では「裁判官の劣化」とも評されているが、政治でも同様ではないか?現実に沿った憲法、法律の解釈運用があっても良いと思うのは不肖筆者だけだろうか?考えさせられた記事でもあった。