平城京は思っている以上にグローバルだった?
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平城宮跡で出土した「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったと言う。
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「破斯」はペルシャを意味する支那語の「波斯」と同義だとの事で、国内の出土品からペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めてだと言う。
その木簡自体は1966年に平城宮跡東南隅の発掘で出土していた。役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録だと言う。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年になって赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できたのだと言う。
「続日本紀」には736年に遣唐使が連れ帰った「唐の人三人、波斯一人」が聖武天皇に会った、と言う記述があると言う。そして聖武天皇はその「波斯人李密翳」に位を授けた、ともあると言う。「波斯人李密翳」のその後については不明だが、聖武天皇の時代には唐だけでなく、その先のペルシャとも交流があった事はまず間違いなかろう。そう言えばこの人物名は東大寺の大仏の開眼供養会の参列者にも名前がある。その他仏哲(ベトナム)、胡人(トルキスタン)からも参列者があったというから、平城京は我々が思っている以上にグローバルな都だったのかも知れない。
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その東大寺大仏の開眼供養会には1万人以上が参列したと言う。正倉院に参列者名簿が現存していると言うからその規模に誇張はないのだろう。因みにこの時の開眼導師はインド出身の波羅門僧正「菩提僊那」だと記録されている。
平城京はシルクロードの終点とも言われる。そのシルクロードを辿ればペルシャにも到達できる。この時代にペルシャにまで行った日本人の話は聞いた事がないが、シルクロードを通じて「モノ」だけでなく、「人」の交流もあったのは間違いない。
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奈良文化財研究所の渡辺晃宏史料研究室長は
「国際的な知識があり、役人として登用された可能性がある。破斯清通が、李密翳やその関係者と考えても年代的におかしくはない」
と、コメントしている。破斯清通=李密翳、と断定は出来ないが、「続日本紀」の記述と今回の木簡の年代差は約30年。可能性が全くない訳ではなさそうだ。また発掘による発見や再調査によって平城京で外国人がどの様な役目を果たしていたのか明らかになるかも知れない。今回の木簡は奈良文化財研究所平城宮跡資料館(奈良市)で開かれる「地下の正倉院展」(月曜休館)で11月1~13日まで展示されるそうだ。