独断で展示を中止した大村秀章と確信犯だった津田大介
※どっちの言い分に理があるかは自明の事であろう。
「あいちトリエンナーレ2019」なる国際芸術祭で出鱈目慰安婦像等「表現の自由」を逸脱した展示物の展示が中止になった問題、実行委員会委員長の愛知県知事、大村秀章は中止を要請した河村たかし名古屋市長について
「憲法21条に違反している疑いが濃厚」
等と批判し、河村市長もこれに反論、「愛知県知事VS名古屋市長」と言う場外戦の様相を呈している。
と反論。まぁ「検閲」と言うのは発表前に公権力による査察が行われ、公表の是非が決まるものなので、そういう意味では大村秀章の「検閲」と言う表現は誤りだ。「公権力による『表現の自由』への介入」と言うべきであった。
一方、河村市長の主張は憲法12条の「権利の濫用の禁止」を根拠にしている。幾ら権利だ何だと言っても日本国憲法下では「公共の福祉」と言う「限界」があるのは論を待たないし、またいかなる権利・自由と言えども「他者を冒涜・毀損する自由」や「嘘出鱈目を拡散する自由」までは含まない、と言うのは当然の事である。それらまで「表現の自由」だと言うならヘイトスピーチだって在特会が主張した様に「表現の自由」で罷り通る事になる。また、騒動を受けて週刊文春が行ったアンケートでは実に74%が「慰安婦像の展示に反対」と回答したと言う。
これも一つの結果、国民の声と言えるだろう。大村秀章その意味を噛み締めるべきなのは言うまでもない。
それだけではない。大村秀章は会見で「嘘を吐いていた」事が暴露されている。
と言う「テロ予告」としか受け取れない表現のFAXが届いていたと言う。そういう真似は幾ら展示が「不適切」と言う認識では共感出来てもその手段は間違っても支持できないが、だからと言って大村秀章を擁護する理由にもならない。そういう事であるなら大村秀章はその責任を取るべきである事は論を待たないのだから。
動画を見れば一目瞭然で、擁護する要素など皆無なのも明白だ。この展示会は私費で行うものならいざ知らず、公金を使った「公的な」性質を持った展示会だった。それに「個人的な」思想信条を持ち込んで「私物化していた」のが津田大介にとってこの展示会の「裏テーマだった」と言う訳だったのだ。最初からこんなのを「芸術監督」などにした事がそもそもの間違いで
後からこんな事を言ったところで何の意味もない。こういうのを「偽善者」と言う。