飯塚幸三への求刑が「禁固」であった理由

 

※潔く罪に服するべし。
 
2019年に起きた池袋暴走死傷事件の暴走車を運転した飯塚幸三なる爺に対する論告求刑は
 
「禁固7年」
 
だった。この事件ではこの爺が「逮捕されないのはおかしい」などと色々言われてきた。今回も「懲役ではなく禁固かよ!?」と反発する声が聞こえてきそうだが、実際にはコイツには禁固の方がキツイからそうしたのだとか。
 

 

 

この様な事件を韓国あたりで起こせばコイツは危険運転致死傷どころか「殺人罪」で起訴され、死刑求刑まであり得ただろう。日本でも「そうしろ」と言う声はありそうだが、日本はこういう何処ぞの蛮国と違って「法治国家」である。勿論これでもコイツの仕出かした事に対する「法的に可能な最大の求刑」ではあるのだが。
 
一般的には労務作業がある分懲役の方が禁固より重い罰、と言われる。確かにその通りと思えるが、「上級国民」と揶揄されたコイツの場合、禁固と言う「究極の不自由」を味わわせる方がコイツの精神には効く、と言う判断があったからこそ、検察は敢えてこうしたのだろう。
 
不肖筆者は経験がないのだが、禁固とは日昼は正座若しくはあぐらでじっとしていなくてはならず、サボろうものなら「受刑者ナンバーで」呼ばれ、怒られる事になると言う。勿論コイツがこれまでの人生で積み重ねてきた栄光や名誉など、ムショでは一切通用しない。只の「新入り受刑者」でしかなくなるのだ。時間はあっても何もする事が許されない。その方がコイツにとってはキツい罰だろう。今まで何でも思い通りにしてきたのだから。
 
※それがこの爺。
 
映画や漫画で主人公が視聴者目線で「コイツ殺てまえや!」と思ってしまう様な悪役を敢えて殺さない、なんて展開はままあるが、そういう場合、「生きて罪を償え」と言う作者のメッセージか「その方がそういう悪役には死ぬより辛い」事が確実だからである。要するにそれと同じだ、って解釈をすべきだろう。誰の目から見てもコイツの「主張が否定される証拠」が明らかになっても尚、自分勝手な主張に固執して反省の要素ゼロ、と言う態度を見せ付けられれば被害者でなくても腹が立つのは当然だ。この爺は過去の自分の栄光を傷付けたくない一心なのだろうが、そんなものはこの事故を起こした瞬間に雲散霧消している。これまでの態度を見る限り、過去がどうあれ今は「只の人でなし」でしかない。検察だって人間だ。我々と同様の思いがあって然るべきだ。ただ、法律の専門家故に法に沿った対応をしている、と言うだけの事である。
 
※それが国民の、いや人類の総意。
 
それでもこの爺に忠告しておくならどういう主張をした所で、また今更反省の態度を見せても手遅れにも程がある。判決はまず間違いなく「有罪」であり、コイツの主張は全面的に退けられる事になるだろう。だからと言って控訴して自分勝手な主張を繰り返したり、時間を稼ぐ真似は止めて潔くここで罪に服するしか選択肢はない。仮に上級審に持ち込んで寿命との勝負になって「被告人死亡につき控訴棄却」となった場合、残された家族は余計に肩身が狭くなるし、本人に前科は付かなくてもコイツの名前は「稀代の悪党」としてしか残らず、過去の業績や栄光など誰の記憶にも残らない。自分自身がこの爺の歳まで生きていられるかどうか?また、何時まで今同様の感覚で車を安全運転する事が出来るかは判らないが、少なくともこの爺の様な事だけはしたくないものだ。己の引き際を的確に見極めて無用の事故を未然に防ぐ。それが我々にも出来る「事故で失われる命」を出さない為に出来る事なのかも知れない。