日本に必要な「ゼロリスク信者」排除

 

※「ゼロリスク」ばかり考えていては政治は動かない。
 
物事を行う際には必ず、と言って良いほど「リスク」は付き纏う。当然そのリスクと行う事によって得られる結果を秤にかけて実行するかしないか判断する事になるが、それに関して興味深い記事があったのでここで紹介しておきたい。
 

 

 

 

記事では日本人の中にある「ゼロリスク」信奉を厳しい目で指摘している。
 
「リスクゼロでなければやるべきでない」
 
と言う一種の狂信である。
 
先の東京オリンピックも「コロナのリスクがある限りやるべきではない」と言う反対論は多かった。また、福島第一原発事故を目の当たりにして「リスクがある限り原発は稼働させてはならない」、時代に合わなくなっている憲法を改正する、と言う意見が出れば「戦争のリスクがあるから憲法9条の改正には反対」等その「ゼロリスク」信者が日本の変革、ひいては発展の阻害要因となっている事は確実である。
 
勿論東京オリンピックだって感染症対策は無為無策だった訳ではなかった(それでも感染例があったのは事実だが)、福島第一原発事故関連で言っても科学的根拠に基づいた説明はされている。憲法改正や実際に制定された安保法制にしても説明はされているのにお構い無しで「思い込みによる批判ばかり」と「ゼロリスク信者」には理屈は通用しない。あるのは「自分達の懸念するリスクがあるのかないのか?」だけであればそのリスクが例え1%でも「99%のリスク」であるかの様に反対一色。こんな連中と議論しても時間の無駄である。
 
そういう「文字通りの『話にならない』」主張が横行するのはマスゴミがそういう論調で煽っているからでもある。やはりコイツ等の存在は「百害あって一利ない」。それをまともに信じてしまう人間がいる事である。

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※「ゼロリスク」だけ煽るのは放送法違反でもある。
 
勿論「あり得る事」としてのリスクは例えそれが1%でも無視して良いとは言わない。例えば原発はその性質上、大量の水を必要とする。必然的に沿岸部に建設する事になるが、日本では当然津波のリスクが出てくる。想定される最大級の津波の波高を前提にその対策がキチンとされているかどうか?されているのであればその「想定される最大級の波高の津波」が発生するリスクを踏まえて稼働の是非を議論する、と言う流れになるのが普通なのだろう。例えばそれが「1000年に一度」レベルとして過去1000年以内に起きた形跡が記録や地質学上明らかであれば原発の稼働可能年数と比較して「リスクは非常に小さい」として「稼働を是」とする意見があっても良いのだが、ゼロリスク信者の手にかかれば「起きる可能性がある以上稼働には反対」となる。これでは議論にもならない。ゼロリスク信者の主張するリスクを認めるとしてもマスゴミ放送法にある様に
 
「出来るだけ多くの角度から論点を明らかにする」
 
必要があるのだが、それをやっていると言えるだろうか?答えは「否」としか思えないのだが。
 

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※それがゼロリスク信者を増やす要因となっている。
 
当然そんなマスゴミと結託している国賊野党及び左翼も同じ穴の狢でしかない。コイツ等の存在こそ「日本のリスク」そのものであり、ゼロリスクを主張するならコイツ等を政治の世界から排除する事こそ必須なのだが、ゼロリスク信者はその矛盾を理解していない。滑稽な事である。
 
記事でも
 
<議論は要らない、イヤなものはイヤなのである。でもこの信者を減らさないと、日本の将来は暗い。>
 
としているが、正にその通りである。
 
まずは、自分の脳の中にチャンスとリスクの秤を用意して、自分の論理で判断することが大事だろう。

くれぐれもワイドショーであおられた話を簡単に信用して、リスクを過大評価してはいけない。また、議論した後で面倒になり、「何も変えない」という不作為を選ぶこともやめるべきである。>

 

記事はこうも指摘する。正に憲法改正議論に当てはまる事ではないか。必要なのは「自分で考える」事である。そしてその尺度にマスゴミの一方的な論調や国賊野党のゼロリスク妄言は必要ない。科学的根拠などの客観的な尺度こそ重要なのである。総選挙も近いので自分の選挙区に出馬する候補を選ぶ際にはこの点を重要なポイントとして誰に投票するか考えるべきである。そうすれば自ずと国賊野党など淘汰されて日本は「普通の国」へと向かう事が出来る様になる。先ずは国賊野党を淘汰する事から始めるべきである。