剣道の精神を理解せずに発祥を主張する韓国メディアの愚

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※今大会のポスター

韓国で「世界剣道選手権」が14~16日の日程で行われていた。結果は全種目日本が優勝、と「剣道発祥国・剣道本家の面目躍如」だった事は喜ばしい事であり、選手の健闘に敬意を表したいのだが、それにケチを付けるのは毎度お馴染み、今大会の開催国で「自称」剣道発祥国である韓国である。


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※日本選手の一本が決まった瞬間。

男子団体戦の決勝は「日本VS韓国」だった。結果は日本の2勝1敗2分で日本の優勝、となったのだが、韓国メディアは

先鋒戦、中堅戦などで、韓国選手の面が認められなかった」

と主張、要するに「日本判定」で実力ではなく審判に負けた、とでも言いたいらしい。

そこで韓国メディアは「ビデオ判定」の導入を主張しているのだが、その時点で

「韓国は剣道の精神を理解していない」

と、自ら墓穴を掘っているに等しい。そんな体たらくでどうして「剣道発祥国」と言えるのだろうか?

剣道における「一本」は以下の様に定義されている。

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この中の「充実した気勢」「適正な姿勢」「残心ある」と言う項目の基準は結局は審判の判断に委ねられる。ビデオ判定を導入して何度検証した所で例えば「充実した気勢だったか否か」という判定の是非は水掛け論の域を出ないだろう。他競技ならともかく、剣道の場合はビデオ判定の意味は殆どない。

また、剣道では素人目には一見両者相討ちに見えるシーンは多いが、「先に当てた方が有効」と言う規定はない。だから例え相手より先に自分の打突が相手の胴を撃ち抜いていたとしてもその姿勢がへっぴり腰だったりすれば僅かに遅かった相手の面が有効、と判断される事も有り得る。そもそも剣道の審判はそう言った「一瞬」の動きでも見逃さない技量がないと務まらないし、動きを見て戦っている選手の実力差は把握していると言う。だから「一本になるかどうか」など選手が動いた瞬間に判断出来ると言う。韓国メディアはその意味を理解しているのだろうか?

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松方弘樹さんが演じた柳生十兵衛。渋い。

時代劇などでもお馴染みの「柳生十兵衛」、彼にはこんな逸話がある。

《十兵衛が某大名のところに出入りしている浪人と試合をした際、一見相討ちに見えたのだが、十兵衛は自分の勝ちであり、これが判らない様では仕方ない、と言った。これに浪人が怒り、真剣で再試合を行ったのだが、その結果浪人は斬られて倒れ、十兵衛は着物が斬られたのみで傷一つなかったのだと言う。そして曰く

「剣術とはこの通り一寸の間にあるものである」》

多少の誇張はあるにしても、それが剣豪の剣豪たる所以なのだろう。韓国メディアにはビデオ判定の導入だ何だと言う前にそういう精神を学ぶ事をお勧めしたい。

近藤勇は戦わなくても相手の実力を把握できたと言う。

新撰組局長近藤勇は江戸で道場を経営していた時、度々現れる道場破りに対し、自身では立ち向かわず、他道場から「助っ人」を呼ぶのが常だったと言う。普通に考えると笑い者にされそうな行為だが、何故か近藤勇は立ち会って剣を交えなくても初見の道場破りの実力を正確に把握しており、助っ人には必ず眼前の道場破り以上に強い奴を連れて来させたのだと言う。だから助っ人達も近藤勇には一種の敬意を抱いていた、なんて逸話もある。「新撰組で誰が最強だったのか?」と言うのはファンの間で良く議論になるそうで大抵の場合、沖田総司永倉新八斉藤一と言った名前を挙げる人は多いだろう。だが、この様な逸話や池田屋事件での近藤勇の活躍を見ると「真剣を握れば」近藤勇がやはり最強だったのだろうと思う。

宮本武蔵の二刀流に鍋蓋で応戦する塚原卜伝。ドリームマッチだが実は「創作」である。

…「剣豪」と言うのは正に「超人的な」逸話を残しており、そういった事も含めて剣道に受け継がれている、と言える。剣道の「道」には技量だけでなく「心」もあるのだ。そしてそれは「歴史と伝統」そのものでもある。それを理解せずに「日本のせい」にする韓国メディアの姿勢は剣道を理解していないと共に

「剣道が韓国発祥ではない」

と言う証拠にしかならない。少なくとも韓国の「コムド」からそういう「心」の話は聞いた事はないが、そもそもそういう「心」があるなら剣道に限らず、国際スポーツ大会での韓国の醜態は最初から有り得ない。それが「答え」なのである。