「援助」は感謝される為にするものではない

広島市重慶市に寄贈した医療用マスク(出典)
 
新型コロナウイルス対して、一般人が出来る対応策として真っ先に思い浮かぶ事は「マスクを着用して感染を防ぐ」と言う事であろう。現状ではマスクはドラッグストアやコンビニなど、売っているであろう殆どの店で「売り切れ」状態となり、入手困難な状況が続いている。そんな中でも支那にマスクなどを支援物資として送る団体や自治体がある。自国民にでさえ不足しているのに他国を優先して援助するなど何事だ、と言う批判も当然出ているが、一方で人道的見地での援助、と言う側面もあるのは確かであろう。だが、それはあくまでも「真っ先に守るべき自国民の安全を確保していれば」と言う前提での話であって、自国民を危険に晒してまで他国を援助している場合でない事は明白であろう。
 
だが、何処ぞの国は援助をしたにも関わらずそんな日本と違って当の支那に「感謝されていない」と不満タラタラだ。そんな事を言っている時点で「恩義の押し売り」でしかないのだが、この国の場合、その意味をまるで理解していないらしい。
 
 
この様にわざわざ「親韓派」の支那人の投稿を引き合いに出してまで
 
支那への援助は日本と比べて『量で勝ったのに質で負けた』」
 
と言わんばかりの「悔しさ全開」の記事だが、そもそもこの手の援助は「感謝される為にするものではない」事は論を待たない。他国より「援助物資の量が多いから優れている」訳でもないし、「気持ちの問題」である以上、その量を他国と比べるなんて事自体が根底から間違っている。しかも「感謝されなかった」なんて逆ギレするなど言語道断、この国の「援助」とは「相手に感謝される為に行う」ものなのだろうか?
 
恐らくこの国の場合、「相手に感謝される」と言うのは「相手の上位に立つ」と言う意味なのだろう。そうでなければこの様な事はそもそも言うまい。その観点で言えば「援助」する事はこの国からすれば「恩義の押し売り」としか相手には映らないだろう。そんなんで相手から「感謝の気持ち」等引き出せる道理はないのだが、それを上は大統領、下は一般人に至るまで理解していないのだとすれば、この国は「道徳の在り方」からして間違っているとしか思えない。
 
いやいや、「この国に『道徳』と言う概念を求めてはいけない」と言う意見もあるだろう。少なくともこの国にはこの国なりの文化や道徳、と言う概念があるのだとしても、文化や道徳観の違う他者からすれば「通用する性質のものではない」事は確実なのだろう。不満を述べるのは勝手だが、その前に「そういう現実」は理解しておく必要があるだろう。
 
その前に「比較対象が日本」だったから尚更こういう記事を書かなければ気が済まない、と言う部分もあるのだろう。だが、書いた所でそもそも「援助を他国と比べる」時点で「気持ちが籠っていない」事が明らかになるだけなのだから、逆効果しか生まない。勝手に「負のスパイラル」に自業自得同然に堕ちていくだけなのだが、言ってやった所で彼等には未来永劫理解できまい。
 
※この事故の教訓も活かされているとは言い難い。
 
例えこの記事の本音が「他者から感謝される為に今までの考え方や方法を改めよう」と言う趣旨だったとしても、この国にそれを実践出来る事は限りなく不可能なのは様々な事例から容易に推測出来る。期待する方が間違っているのは明白だが、幾らこの国が「反日」だと言ってもこんな連中に「感謝されない」等と言われたくはない。そうならない為にも我々一人一人が「出来る事」積み重ねてあらゆる意味でこの国の援助を受ける様な事が起きない努力をしなくてはならないのだと言える。