習近平独裁の僅かな綻び

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※実績は所詮ハリボテ。

先日まで行われていた支那共産党6中全会。そこで40年ぶりとなる「歴史決議」がなされたらしい。その「歴史決議」とやらは支那共産党で3度目だそうで、習近平の奴は過去に毛沢東・鄧小平しか出していないこの決議を出す事で自身を毛沢東・鄧小平に並ぶ存在とし、生涯権力の頂点に君臨し続けるつもりなのだろう。だが、実際には習近平の狙い通りの結果にはならなかった模様だ。「上意下達」が常識のこの組織で何があったのだろうか?

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https://news.yahoo.co.jp/articles/1b6a6c2ba1613595fbf4c483c31ca17b63102ce5

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※自分の面子より世界の声を聞いたらどうか?

今年は「支那共産党創設百周年」と言う事でそれを記念した「歴史決議」を出すのはコイツ等の目線で言えば当然、と言う面はある。だが習近平は「その時偶々トップだった」だけでしかないのでその意味では支那共産党にとっては意味があっても奴の権威の向上の貢献、とまではいかない。その決議にそういう要素があったのか?と言うと、実際の決議は「歴史決議」は今までの支那共産党の歴史を「6段階」に分けて総括し、その中では毛沢東・鄧小平・江沢民胡錦濤習近平という5人の指導者を同列に並べて評価しているのだと言う。要するに奴の狙いだった「この決議を利用して自らを毛沢東・鄧小平に並ぶ存在にする」と言う作戦は記事指摘の通り「失敗に終わった」と解釈出来るのである。

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習近平も先人にそう思われているのだろう。

また、習近平の奴は「習近平思想」なる政策理念を掲げているが、そいつも毛沢東・鄧小平・江沢民胡錦濤が掲げた政策理念と並記されただけでそれらを越えた「特別なもの」とは扱われなかった様だ。従って習近平

「現在の支那共産党の中心である」

事には疑いの余地はないが、それまでの指導者と「同列」でしかないのである。独裁者に何があった?

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※それが習近平の実績なのだろう。

記事は「抵抗勢力」の存在を指摘している。現在でも支那共産党の幹部には江沢民胡錦濤によって抜擢された者が居るらしい。そういう勢力が一定の発言力を保持しているなら自分達を抜擢してくれた指導者を追い越す真似に快く賛成しないのは理解出来る。習近平の奴がそういう反対勢力を黙らせるだけの圧倒的な実績があれば話は別だが、習近平の実績とは何があっただろうか?

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※神格化の前に自分の実績を振り返ってはどうか?

習近平の実績、と言えば武漢でのコロナウイルスの初期対応を誤ってパンデミックを引き起こしたとか、チベットウイグルの人権問題を明るみにして世界中の非難を浴びる原因を作ってしまったとか、「戦狼外交」で世界中から信頼を失い、自国にまで危機をもたらしたとか、南シナ海で従来から主張していた「九段線」を国際法上完全に否定されたりとか、国家主席の任期を廃止して独裁者への道を邁進したりと何をどうやったら毛沢東・鄧小平と比肩出来ると言えるのか謎である。結局コイツは自己顕示欲しかない「権力の亡者」でしかないのだ。支那共産党は「習近平をトップにしたのは人選ミス」だったと認めるよりない。

奴が来年、3期目を確定させればまともな実績を作らなければ足元を掬われる可能性もある、と言う事なのだろう。ロクな実績もないのに奴の為の「3期目」を反対勢力が黙って認めるだろうか?その意味では奴は独裁者ぶっているが実態は「砂上の楼閣」でしかないのかも知れない。そんな奴が「誰にも出来なかった実績」を作るのにあり得るのが「尖閣諸島や台湾への武力侵攻」である。それをやれば国際的な非難は当然だが、奴は国連が何も出来ない事は見透かしている。「既成事実を作れば勝ち」と思っているのだろう。どちらも言うまでもなく日本の安全保障に直結する大問題だ。奴が支那共産党のトップである限り友好などあり得ないし、信頼関係、なんて言葉も永久に縁がない。その意味が判らない連中は政治に関わるべきではない。習近平は「現代のヒトラー」に相当する存在でしかない。そういう認識が必要なのであり、世界はヒトラーへの対応の過ちを繰り返してはならないのである。