安部首相の靖国参拝、何が問題なのか?

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安部首相が靖国神社を参拝した。第一次政権時参拝出来なかったのを「痛恨の極み」と表現しており、そのうち参拝するだろうと思ってはいたが、第二次政権スタートから丁度1年の日を選んだ訳だ。

…案の定支那・韓国が猛反発し、米国も懸念を表明、国内でも「何故今なのか?」などと各番組で検証しているが、単純な疑問がある。

「何故靖国神社に参拝してはいけないのか?」である。

今回安部首相は私人の立場で参拝としている。勿論首相としての肩書きはイヤでも付いて来るが…
玉串料を公費で出した訳ではない。また「鎮霊社」と言う靖国神社内にある靖国神社に合祀されていない全ての人を祀る社にも参拝している。
戦争で亡くなった全ての人に哀悼の意を捧げたのは間違いなかろう。

それまで「政教分離に反する」と言うのは行き過ぎだろう。

そもそも靖国神社大東亜戦争で亡くなった人だけを祀っているのではない。始まりは戊辰戦争で亡くなった官軍兵士を祀ったのが始まりである。それ以外にも日清・日露戦争で亡くなった英霊も当然祀っている。百歩譲って大東亜戦争侵略戦争だったとしてもそれ以前の英霊に敬意は示さなくてよいのか?

また、戦後の占領期にGHQによって取り壊しが計画された事もあったが、以下の経緯によって取り壊しは回避されている。Wikipediaより抜粋。


戦後に日本を占領したGHQは、1945年、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン (Patrick Byrne) 神父に意見を求めることになった。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。そして次の言葉で締め括った。
靖国神社国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」

それ故靖国神社は今に至るまで戦没者追悼施設の側面もあるわけだ。

また、A級戦犯が合祀されているからと言うのも如何なものだろうか?

例えば支那は合祀されて即抗議した訳ではない。またA級戦犯が事後法で裁かれたのは周知だが、そのインチキを受け入れたとしても罪に対する罰は受けて禊は済んだと言えまいか?その罪と罰は日本が決めたのではない。戦勝国が決めたものだ。

結局首相の靖国神社参拝に反対する意見はどうあれ行き着く先は「支那や韓国が反対するから反対」か、「反対の為の反対」になるのだろう。日本人ならば反対する理由はないと思うが…?


…ついでに言うと靖国神社には支那が文句垂れた後でも米英はじめ、ドイツ、イタリア、フィンランドスロベニア、スイス、ロシア、イスラエル、トルコ、イラン、マレーシア、スリランカ、タイ、台湾、パラオ、ブラジルなどなど…多数の国の武官、政治家、国家元首に至るまで参拝している。韓国も例外ではなく、李氏朝鮮の旧王族、駐日大使館付武官が参拝している。

どうしても靖国神社参拝が過去の侵略戦争を美化し、A級戦犯を賛美していると言うならば過去に参拝した全ての国がそうだと証明しなくてはならない。それが出来ない支那・韓国がとやかく言う資格はない。更に言うと武官たるものその立場で外国に赴任したら、その国の戦没者追悼施設を訪問するのは国際儀礼である。それすらしない非礼な支那の言う事など意に介す必要ナシである。韓国のそれはただの火病。もっと意に介す必要ナシ、である。