「日本の底力」を「ナショナリズム」にすり替えるアメリカの記事

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※一度はご覧になる事をお勧めする。

興業収入が60億円を越えて今尚ヒットを続けている「シン・ゴジラだが、どういう訳か「日本のナショナリズム」と絡めて論評する記事が散見される。例えばウォール・ストリート・ジャーナルのこういう記事だ。
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160905-00011369-wsj-int
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ゴジラはある意味では「日本」そのものでもある。だから「滅びない」。

「今の日本の状況とあまりにも重なるところが多い」

と言う大学教授のコメントを掲載しているが、ゴジラ映画は意外に思われる向きがあるかも知れないが「世相を反映」したものは意外に多い。そもそも第1作からしゴジラアメリカによるビキニ環礁での水爆実験を受けた「核の恐怖と脅威」の象徴だった。記事が挙げた様に「ゴジラ対ヘドラ」では公害問題を扱い、時代が平成になってからもゴジラVSビオランテ」ではバイオテクノロジーの誤用ゴジラVSキングギドラ」ではバブルに浮かれていた日本への警告ゴジラVSモスラ」では環境問題がそれぞれのテーマだった。「シン・ゴジラ」で政府の「想定外の事態」への対応についての法的限界を描いたところでゴジラ映画は世相を反映する」と言う意味では当然だとも言える。少なくとも今更驚く程の事ではない。それにも関わらず

安倍晋三首相の下で生まれた新たなナショナリズムを思い起こさせる。」

憲法改正により緊急時に政府に特別な権限を与えるべきとの保守派の主張を支持することになりかねない」

…等とわざわざ書くあたりが映画の論評としてはキナ臭い。

映画で示されるのは「日本のナショナリズム」と言うより「日本の底力」と行った方が的確であろう。作中では自衛隊の攻撃はゴジラには効果がなかった。その上安保理ゴジラに対する核攻撃を決定してそのカウントダウンが迫る…逃げ出してもおかしくない絶望的な状況下でも主人公の矢口は諦めずに自らの対策プランを「ヤシオリ作戦」として実行に漕ぎ着け、結果「ゴジラを止める」事に成功する。
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※このシーンのBGMが意外すぎた…

映画を観た後に「日本人に生まれて良かった」「日本と言う国を誇りに思える」と言う感想を持つ人が居ても不思議はないが、それを「ナショナリズム」と言うだろうか?それ程のものとは思えないし、仮にそうだとしても少なくとも「GODZILLA(1998年)」で米軍が退治してしまい、群衆が喝采する「怪獣」が登場する映画を作ったアメリカにそれを言われたくはない。

アメリカのメディアがこういう観点で記事を書く、と言う事は映画で示される「日本の底力」をアメリカは認めていると同時に怖れている、と言う証左ではないだろうか。映画ならともかく現実で日本にそれを発揮されてはアメリカとしては困る面があるのだろう。だから「ナショナリズム」に話をすり替えて押さえ込もうとする、そんな気がしてならない。
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ゴジラでなくても「想定外の緊急事態」への備えは現実問題でもある。

…いずれにしても「想定外の緊急事態」に対する政府の対応の法的限界、と言うのは現実問題である事に変わりはない。「日本にはあれだけの底力があるのだから大丈夫」ではなく、「備えあれば憂いなし」であるべきなのは論を待たないが、反対論者は個人の防災対策は推奨しても国家としての防災対策は認めない、とでも言うのだろうか?この映画、政治家のセンセイも見ている様だ。映画の教訓が現実の政治に反映されれば良いのだが…?
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※政治家のセンセイは映画を見て何を思う?
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※作中の大河内総理は政治家にとってある意味「反面教師」になるだろう。