利見忘義の輩

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「利見忘義」とは目先の利益にとらわれて恩義を忘れると言う意味だそうだ。
支那人民日報がこの表現を用いて東南アジア諸国(特に支那と険悪なフィリピン)を批判している。要は自らの主張に同調しない東南アジア諸国に苛立ちを感じているのだろう。

…如何にも中華思想丸出しの傲慢な考え方である。自分達がそうだと言うなら相手は問答無用で同調すべきだと言わんばかりである。

何故そうなのかはお得意の「歴史を直視」すれば明らかなのだが、その辺を理解する発想は支那にはないらしいな。

東南アジア諸国は今回の安部首相の靖国神社参拝には特に公式な反応は示していない。ベトナム政府が中立的なコメントを出した位だ。民間ではニュースになってはいるようだが。

産経新聞が伝えていたが、インドネシアで最も影響力のあると言うコンパス紙が社説で靖国神社参拝について触れている。以下引用。

 「1869年の明治時代に建立された靖国神社は太平洋戦争(1941-1945年)時の日本軍による侵略の象徴とみなされている。それが理由となり、今回の安倍首相の参拝を、中国と韓国は太平洋戦争時に日本が占領した国々に苦痛と困窮を与えた日本の戦争犯罪者に対する敬意の現れであるとみている。

 今回の参拝に対して反発する中国と韓国はそれぞれ、北京とソウルの日本国大使を呼出し抗議を行なった。中国の王毅外相は安倍首相の行為は日本を「非常に危険」な方向へと導くものだと指摘する一方で、韓国の劉震龍文化体育観光部長官はこの行為を時代錯誤の行為であると述べている。

 しかしながら、私たちはこうした自身を被害者と位置付ける中国と韓国の見解はひとつの側面からの視点であると気が付かなければならない。この問題にはもうひとつの側面、すなわち安倍首相の見解も存在しているからだ。今回の靖国神社参拝には戦争犯罪者を称える意図は全くないと安倍首相は言う。戦死した人々の霊に祈りをささげ、(日本)国民が再び戦争の惨禍によって苦しむことのないように取り組む決意を「伝える」ためのものである、と。

 留意するべきは、靖国神社は現在戦争犯罪者とみなされている数百名のみではなく、同時に戦争の犠牲者となった250万人を祀る場所でもあるという点だ。さらに、安倍首相によれば、国のために命を捧げた人々に敬意をあらわし、彼らのために参拝することは日本の指導者として当然であるという。「そして、私は平和のために祈りました。日本が再び戦争を引き起こさないためにも」と安倍首相は語っている。「中国と韓国の感情を傷つける意図はありません」

 全ての行動は様々な面から評価することができるが、参拝の時期が不適切であったことは認めざるを得ないだろう。日本と中国が東シナ海の領土問題で対立が深まるこの時期になぜ、安倍首相は靖国神社を訪問しなければならなかったのか。アメリカが参拝の実施時期に懸念を表明した理由もここにある。

 私たちもアメリカと同様、日本と2つの近隣諸国がこのセンシティブな(繊細な)問題を克服する建設的な方法を見つけ、地域の平和と安定を維持するための協力と良好な関係を今後も守っていくことを願っている。」

インドネシア親日であると言うが全体的には中立的な印象を筆者は受けた。インドネシア人の方が支那人より余程視野の広い物の見方が出来るのは明らかであろう。何故か日本メディアは産経以外触れない(触れても意図的に支那寄りに編集する。)

支那人は何故「自分達の言う日本の侵略の被害者」がこういった考え方をするのか理解できまい。だから「利見忘義」などとカネに絡めてこじつける。カネの問題ではないのだが…?
大体「利見忘義」というなら支那自身はどうなのか?日本から莫大なODAを受けていて何を言っているのやら?「利見忘義の輩」とは支那自身である。

また、歴史を振り返って見れば明らかだ。大東亜戦争は「アジア諸国の欧米植民地支配からの解放」を旗印にしていたのは事実である。
「そんなのは建前だけ」と言うかも知れない。では昭和18年の「大東亜会議」についてはどう説明するのか?
昭和18年の戦局と言うと緒戦の快進撃は既にどこへやらで、ガダルカナル撤退、山本五十六戦死やアッツ島玉砕など悪化の一途を辿っていた時期である。そんな時期にアジア諸国と日本によるサミット(インド仮政府はオブザーバー参加)が行われた。会議では日本の現地政策に対する批判もあったと言うが、成果として「大東亜共同宣言」が出されている。支那・韓国の連中は批判する前にこの大東亜共同宣言の意味を考えたらいい。

因みにインドネシアは日本の敗戦2日後に独立宣言をしている。旧宗主国オランダとは独立戦争の末、1949年にオランダに11億ドルもの賠償を払って正式に独立したが、独立宣言の年号は「05年8月17日」である。05年とは実は皇紀2605年の意味である。インドネシア人が大東亜戦争をどう捉えたのかは一目瞭然であろう。

…いずれにしても支那(韓国もだが)のやり方は自分達の主張の押し付けに過ぎない。それが靖国神社参拝問題の本質である。そしてそれを受け入れているのが売国左翼である。靖国神社参拝に意見を求められたドイツは意見の前にこう前置きした。「日本の内政問題にはコメントしない」そう、通常の国から見たら靖国神社に参拝するしないは所詮は内政問題の域を出ないのである。それを理解出来ないのは支那・韓国だけである。