形骸化して意味をなさなかったいじめ対策

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先ずは今回亡くなった生徒の冥福を祈りたい…

《平成25年に施行された「いじめ防止対策推進法」に基づき、いじめ撲滅に向けた新たな制度づくりが全国の学校で進む中、村松亮君が通っていた中学校も昨年、いじめ防止のため基本方針と対策委員会を設けたばかりだった。

 町教委によると、同校ではいじめ早期発見のため全生徒へのアンケートを年3回行うと決めていた。しかし、5月に予定していた直近の調査は行事の関係でずれこみ、6月下旬に実施。また、6月に予定していた保護者へのアンケートは実施していなかった。担任と校長らの情報共有も不十分で、制度導入後も運用が形骸化していた。

 文部科学省は町教委を通じ、学校の対応などについて聞き取りを進めており、同省担当者は「全国的に制度の運用状況について検証が必要と考えている」と話した。》

http://www.sankei.com/affairs/news/150709/afr1507090044-n1.html

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「いじめ問題」は昔からあるものだ。いじめを苦に自殺した生徒が出る度に「何故周囲の大人は気付かなかったのか?」と言う疑問が必ずマスコミやコメンテーター等様々な立場から異口同音の指摘がなされる。今回の事件の舞台になった中学校も全生徒への年3回のアンケート、保護者へのアンケート、また生徒と担任の間でやり取りする連絡ノート等のいじめ対策と呼べるものは存在していた。何せこの中学校、18年前にも生徒の首吊り自殺があったと言うから更に驚く。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150709-00000026-nkgendai-life

この時はロクな調査もせずに僅か5日後に校長が「いじめも体罰もなかった」と発表していたと言う…対策がそれなりにあったのはそういう反省があったからなのかも知れない。

…だがそれはあくまで対策が有効に機能していればの話であって、生徒へのアンケートは後ろ倒し、保護者へのアンケートは未実施。連絡ノートを見れば一目瞭然でいじめがあった事は明白だったにも関わらず担任は抜本的な解決には動いていなかった。

しかもこの担任、自ら現場を目撃していじめていた生徒に注意はしていたと言うが、公開された連絡ノートへの記述を見る限り問題意識が低すぎた、と言う他無い。校長にも報告はしていなかったのは重過失、怠慢と言っても過言ではないだろう。

何れにしてもいじめ対策はあっても運用が十分になされず形骸化していれば意味がない。今回の悲劇の原因はそこにあったのではないか?とさえ思えてしまう。

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生徒はいじめを苦にして連絡ノートでSOSを出していたと言える。それに対する担任のコメントが明らかに能天気過ぎる。それを見た生徒が担任も頼りにならないと絶望してしまったと言う事は想像に難くない。…だとすれば担任にも当然ながら責任がある。それも重大な。

しかしこういう風潮は何もこの学校や担任ばかりではない。いじめにしろ犯罪にしろ、「被害者の救済よりも加害者の人権がぁ~」、などと抜かす風潮そのものに問題があるのではないか?加害者も人間であり、人権があるのは確かだが、いじめや犯罪といった明らかに被害者の権利が侵害されている場合には当然ながら被害者の救済が第一である。そういう当たり前の事が忘れ去られているからこの様な悲劇が後を絶たないのではないか?それを認識する代償が人一人の命では余りに割りに合わない。そう思えてならない。

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