どうなる?安保法制違憲訴訟。

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※これで論争に決着が付いた訳ではない。

安保法が国会で可決成立し、議論に一つの区切りが付いたと言えるであろう。…とは言え反対派が簡単に敗北を認めよう筈もなく、早速こういった形で第2Rが始まりそうだ。
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150919-00000069-jij-soci

三重県松阪市山中光茂らが結成した市民団体が集団違憲訴訟を起こす準備を進めていると言う。「国民全体の訴訟として、裁判の場で闘いたい」と、賛同する地方議員らと1万人規模の原告団を目指して参加者を募っており、早ければ年内にも提訴する事を目指している模様だ。

今年6月の衆院憲法審査会で「違憲法案」と指摘した憲法学者小林節弁護団、更に20人程の弁護士が参加すると言う。
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※次は予告通り違憲訴訟。だが狙い通りに行くとは限らない。

予想された反対派の「次の一手」ではあるが、話はそう簡単にはいかないであろう。

先ず真っ先に挙げられる問題は「日本の裁判制度における違憲立法審査権は具体的事案に付随して行使される」と言う点だ。これは日本の裁判所には「憲法裁判所」としての機能は無いことを意味する。国によっては憲法裁判所が存在して成立した法律が憲法に違反してないか審査して「合憲」と御墨付きを与える事で始めて施行可能になる、といった制度を導入している国もある。だが日本の場合は単純に「違憲確認訴訟」を起こした所で「訴えの利益なし」として却下されるのがオチである。
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最高裁

実際に三重県の元職員が「安倍首相の行った憲法解釈変更の閣議決定違憲で精神的苦痛を受けた」として集団的自衛権行使容認の閣議決定憲法違反」と提訴したが、裁判所の判断は地裁から最高裁に至るまで上記の通りであった。

http://blogs.yahoo.co.jp/imadon1101/35203916.html
(不肖筆者もこの件は記事にしているのでご参照頂ければ幸いである。)

またかつて日米安保条約が締結された際、左翼活動家の男が最高裁日米安保条約違憲である。」としてイキナリ訴状を提出した、と言う事件もあったらしい。…その結果が「門前払い」であった事は言うまでもない。

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※安保法制でこう変わる。

安保法制の違憲性を裁判所に問うのであればそれによって具体的に原告の如何なる権利が侵害されたのか?原告に如何なる具体的な損害が発生したのか明確に出来ないと裁判では話にならない。そこで原告が「侵害された権利」とするのが「平和的生存権である。

この権利は「人として平和の中で生きる権利」とでも考えて頂ければ差し支えなかろう。言い換えれば「戦争に巻き込まれない権利」とでもなろうか。実際の裁判でも2008年の自衛隊イラク派兵に関する訴訟で名古屋高裁自衛隊の活動に違憲判決を出した際(この判決は確定している)、この権利を認めている。

しかしこれは高裁レベルでの判決である。かつて自衛隊の合憲性が争点になった長沼ナイキ訴訟では地裁ではこの権利に基づいて原告適格を認めたが(これが自衛隊違憲の唯一の判例)、その後の控訴審では判断が覆され、最高裁も高裁の判断を支持した。直近では最高裁にまでこの件が持ち込まれていないので現在どう判断するかは不透明ではあるが、長沼ナイキ訴訟の時点では最高裁は否定的な判断である。高裁では判断が分かれているので、「平和的生存権」を根拠に訴訟が成立するかは微妙ではある。

不肖筆者としてはこの権利の存在を否定するものではないが、この「平和的生存権」の根拠は?と言うと、憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と言う一節や、9条、又は13条の幸福追求権を根拠にしているとされている。各条文を根拠に、と言う主張は理解できるが、実は憲法前文を根拠に権利を主張できるのか?と言う論争が実は法曹界には存在しており、これには意外にも否定的な意見が多いのである。

そもそも憲法前文に何らかの権利の根拠を認める、と言うならば安保法制も先程引用した一節の直後の「 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって」と言う一節を根拠に集団的自衛権行使を合憲、と言う解釈も出来てしまうのである。反対派には痛し痒しであろう。
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※これが集団的自衛権の必要性の根拠になる考えでもある。

先述した様に「平和的生存権」を「戦争に巻き込まれない権利」と解釈するのであればそれを根拠に「集団的自衛権違憲」と言う主張には「集団的自衛権行使で戦争に巻き込まれる」と言う前提が存在する事になる。これこそ集団的自衛権行使容認反対派の主張の核心であると言えるが、それをどう立証すると言うのか?幾ら集団的自衛権行使容認されたと言っても実際に何らかの武力攻撃が発生しない限りそれを行使する機会は永遠にやってこない。つまり安保法制が運用されて戦争が起こらなければその主張が誤りである証明になってしまう。反対派は戦争が起こる事を望んでいるのか?「平和的生存権」を口にする者がその主張の正当性を戦争勃発でしか証明出来ないのは壮大な皮肉でしかないのだが…?
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憲法9条を改めて確認。

…と、訴訟を起こした所でその入口から問題を孕んでいるのが現状であるが、この不毛な論争も国際法の観点から見れば別の考えも見出だせる。

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サンフランシスコ平和条約の調印風景と条文を抜粋。

例えばサンフランシスコ平和条約5条を見ると(c)に日本が個別的・集団的自衛権を保持している事、また日本が自発的に他国と集団安全保障体制を締結できる旨が明記されている。

…ではこれが根拠であるならば、安全保障関連法案は問題ないのか?と言うと話はそう簡単ではない。日本が国際法を遵守尊重するのは憲法98条の規定からも当然であるが、憲法は国の最高規範である。現在の通説では憲法>条約>法律という優先順位だそうだから、例え安保法制がサンフランシスコ平和条約5条を根拠だ」と言っても憲法9条と整合性が取れなくてはならない。そこでもう一度この条文を見てみると

(i)その国際紛争を、平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決すること。
(ii)その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使は、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むこと。
(iii)国際連合が憲章に従つてとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合が防止行動又は強制行動をとるいかなる国に対しても援助の供与を慎むこと。

が、日本が国際社会で負うべき義務として明記されている。要するに国際紛争は平和的手段で解決しろ、武力による威嚇や行使は国連の目的内という例外を除いて行ってはならない、国連憲章に基づく国連の行動には支援を、逆に国連の(軍事)制裁対象の国には一切援助するなと言う訳だ。殆ど憲法9条1項の内容そのものである。9条擁護派には意外かも知れないが、仮に憲法9条を改正しても日本が国際紛争を武力で解決、若しくは武力で威嚇、等と言う事は国際法的には出来ないと言って良いのである。極端な言い方をすれば憲法9条はサンフランシスコ平和条約発効の瞬間にその役目を終えているのである。
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※極端な言い方ではあるのだが…

サンフランシスコ平和条約日本の主権回復の根拠となった経緯や日本での法体系内での運用の実情を考慮すれば憲法に匹敵する重みがあるとも言える。日本の領土に関する規定はこの条約が根拠になっているのだ。実際に憲法98条の政府解釈では 「国の存廃に関わる条約については、条約が優位する」というのが採用されている解釈である。

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※韓国は集団的自衛権を口実にベトナムで残虐行為を行ったが、日本がどうしてそれを真似する、と言うのか?

また集団的自衛権その物に対する考え方も変化している、と言う事実も見逃してはならない。 反対派の主張の通りにかつて韓国がベトナム戦争に「共産主義に対する集団的自衛権発動」と言う口実で参戦した例はある。だが、これは40年前のロジックであり、現在ではニカラグア事件に於ける国際司法裁判所の判決で「集団的自衛権の行使要件」に「攻撃を受けた国からの表明」「救援要請」と言うのが判示されている。従って集団的自衛権発動の際に「戦争が始まる」のではなく「既に始まっている」から発動されるのである。未だに集団的自衛権で戦争が出来る様になる」等と言っているのは過去の遺物と化したロジックを主張しているに過ぎない。

以上の様な理由で国際法の観点からはこの安保法制に問題はないと言って良いであろう。そもそも集団的自衛権が問題になる国際紛争には相手になる他国が存在していなければ行使のしようがない。故に国内法だけでなく、国際法も含めて考えるべきではないか?必要なのはそういう観点からの考察であり、これが反対派の安保法制への理解の一助になれば幸いである。
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※これも真実であろう。我等が日本にも言えることである。