「憲法違反」と断じられた那覇市の孔子廟
※「宗教団体運営」と裁判所の御墨付き。
「無償で」
敷地を提供されていた、と言うのだ。それを
「政教分離の原則に反する」
として裁判が起こされていたのだが、1審に続き、2審でも
「違憲」
と言う判断がされた。
この問題、そもそも「儒教は宗教なのか?」と言う疑問から考える必要がある。日本では歴史上「儒学」として「宗教より学問」として受け入れられたので「宗教」とする意識は余りない、と言える。だが、儒「教」と言う呼称や宗教を「死生観に関わる思想」と考え、儒教の「祖先崇拝」をその範疇に認めるのであれば
「儒教を宗教」
と見なす事も不可能ではない。勿論先述した様に「日本では学問として受け入れられてきた」と言う事実を無視しろ、とまでは言えないが、儒教に「宗教的側面がある」事もまた「否定し難い事実」と言える。
いずれにしても判決では廟の管理団体について、営んでいる祭礼行事の内容を踏まえ「宗教団体」だと認定した。従って判決に言わせれば
「宗教団体がその目的の為に使用している施設は『宗教施設』」
と言う事になるのだろう。那覇市が他の宗教にその所有する土地を貸しているのかは定かではないが、他宗教からは賃両を徴収している、と言うのであれば「孔子廟だけ無償」と言うのはおかしいし、仮に他宗教には土地を貸していないのだとしても社会通念上「土地を貸して賃料をとらない」と言うのは不可解と言うよりないし、ましてや相手が「宗教団体」と判断される様な実態では
と、判示されても仕方ない。
そもそもなんでこの様な事になっているのか?と言うと故・翁長雄志が那覇市長だった2011年に孔子廟の設置許可を出し、その際に土地使用料も「無償」となったらしい。儒教の生まれた支那への配慮、とも受け取れる。
「支那へのおべっか」
と言う疑いは消えないが、本人が既に亡くなっているのでその心境は永遠に判らない。
だがこの判決、不可解なのは1審で「180万円」と算定した土地使用料について高裁では額を明示しなかった。寧ろ問題はこっちの方で、高裁が額を明示しなかったのは「金額に関して市長の裁量」を認めたからだ。とは言え、付近の土地の賃貸相場、と言うのはある筈なのでそれを根拠にすれば金額の算定は出来る筈だし、「市長の裁量」を口実に相場とかけ離れた不当に安い金額に設定されれば「その妥当性」を再び法廷で問う事になる。そんな「いたちごっこ」を続ける意味があるのか?
この点が納得いかない原告は上告を検討すると言う。被告側が上告した所で新たな上告理由を見出だす事は難しく、「却下」と言う判断になるのは目に見えているが、高裁が賃料に関して市長の裁量を認めつつ
「付近の土地賃貸料の相場に照らして算出せよ」
とでも判示していれば原告が上告を考える必要はなかったであろう。そのあたりに「無駄」を感じてしまう判決だと言える。